海猫と牡蠣雑炊
港の食堂「波止椀」は、漁が休みの日でも昼だけ店を開ける。
屋根には海猫が集まり、客が戸を開けるたび、何かもらえると思って騒ぐ。店主の鞠江は「魚はやらないよ」と毎日同じことを言う。
八朔礼央は、かつてこの港で小さな漁船を出していた。
腰を痛めて船を息子へ譲ったのが去年の春。息子は新しい魚群探知機を積み、競りの出し方も変え、礼央の頃より売上を伸ばした。
喜ぶべきだと分かっている。だが港で「若い船頭はやるな」と聞くたび、自分の名前が潮で薄くなるようだった。
「牡蠣雑炊、できたよ」
鞠江が土鍋を置いた。蓋を取ると、海の匂いを含んだ湯気が顔へ上がる。ふっくらした牡蠣、溶き卵、刻んだ三つ葉。米は出汁を吸い、輪郭をなくしかけていた。
「息子、今日は沖か」
「俺に訊くな。あいつの船だ」
「じゃあ誰に訊けばいい」
「本人に」
「電話すりゃいいのに」
鞠江はそれ以上言わず、小皿の柚子胡椒を寄せた。
礼央は牡蠣を一つ噛んだ。濃い旨味と、わずかな苦みが舌に広がる。熱い米を飲み込むと、冷えていた腹の底へ潮の温度が戻った。
屋根で海猫が鳴く。窓際へ一羽降り、首を傾けた。
「こいつら、昔から同じ顔だな」
「毎年違うのも混じってるよ」
「見分けがつかん」
「向こうも、あんたと息子を見分けてないかもね。魚を持ってくる人間だ」
礼央は鼻で笑った。
「俺のやり方を、あいつは何も残してない」
「この雑炊の出汁、誰から教わったと思う?」
「俺の女房だろ」
「そう。分量は変えたけどね」
鞠江は鍋を指した。
「残すって、同じにすることじゃないよ」
礼央は二杯目をよそった。今度は柚子胡椒を少し溶かす。香りが立ち、同じ雑炊が別の味になった。
食べ終える頃、息子から写真が届いた。朝獲れの鯛を抱えた若い乗組員たち。その端に、船へ今も吊られている古い浮子が写っていた。礼央が手作りしたものだ。
〈帰りに寄る。操舵の癖、ちょっと見てくれ〉
礼央は返事を一言だけ打った。
〈雑炊食って待つ〉
海猫が窓を嘴でつついた。礼央は空の土鍋を見せる。
「お前の分はない」
外は潮風で冷えていたが、喉には牡蠣の濃い香りが残り、港の音が久しぶりに自分の居場所のように聞こえた。