湖面の冬眠
山あいの湖が初めて凍った朝、自然保護官の真砂が岸近くの氷へ半身を封じられていた。上着と髪まで透明な膜に包まれ、薄氷を割れば周囲ごと沈む。救助艇と切断枠が届くまで、遺体は湖面から動かせなかった。
昨夜、真砂と会ったのは氷上漁師の靴名、湖畔宿の主人・瀬川、生物学者の鮎貝。真砂は違法な餌撒きで水質が悪化した証拠を見つけ、三人へ聞き取りをしていた。靴名は対岸の自動竿に付き添い、鮎貝は研究室の定点映像に映る。瀬川は「真砂は午前二時に宿を出た。その時は生きていた」と証言した。宿帳には真砂の部屋番号が消され、瀬川は『本人の希望だ』とだけ説明した。湖が凍る時刻を知らなければ、その証言は自然に聞こえる。
氷は声まで吸い込むように静かだった。私は岸から届く範囲で、三つだけ調べた。
第一。細い葦が真砂の上着を貫き、そのまま折れずに氷の上へ出ている。凍ったあとに体を置いたのではなく、水面が液体のうちからそこにあった。
第二。湖上気象計は午前零時四十八分に表面結氷を始め、一時六分には連続した氷膜ができたと記録している。
第三。真砂の靴底には瀬川が午前零時に宿の廊下へ塗った緑色ワックスが付き、裏口の土間には同色の足跡がない。その時間、靴名の竿信号と鮎貝の定点映像は一分も欠けていなかった。
瀬川は、真砂が乾く前の廊下を走って出たのだと言い直した。氷の下の顔は、その場しのぎの言葉を聞いていない。
真砂は午前二時まで生きていない。折れない葦は体が結氷前から浅瀬にあったことを示し、気象計は遺棄を零時四十八分以前に限定する。さらに靴底の生乾きの緑ワックスは、真砂が最後に宿の廊下へいた証拠で、対岸と研究室にいた二人には付けられない。瀬川は宿で殺し、凍る前の湖へ運び、二時の目撃を捏造した。動かせない氷は、死者を閉じ込めると同時に、主人の証言できない時刻まで封じ込めていた。 自然が作った氷膜は、宿の主人が作った時刻だけを受け入れなかった。