演技の指輪
貸宝飾店の返却受付が閉まるまで、あと十一分だった。
宇賀伶花は、左手の指輪を外せずにいた。細い銀色の輪は、祖母へ見せるために借りた婚約指輪だった。
「石けん、借りてこようか」
隣に立つ安積壱成が言う。
「触らないで」
「分かった」
二年前、祖母が入院した。結婚を心配する祖母を安心させたくて、伶花は幼なじみに婚約者の演技を頼んだ。
祖母は写真を枕元へ置き、翌朝には久しぶりに食事をした。うれしそうな顔を見て、伶花は嘘を訂正できなくなった。
壱成には話さなかった。付き合って一年、将来の話を避けていた彼が重く感じると思ったからだ。
病室で撮った写真が親戚のSNSへ載り、壱成は画面の中で初めて恋人の婚約を知った。伶花が演技だと説明したとき、彼は「俺にとっては演技じゃなかった」と言って去った。
「指輪、切るしかないかも」
「演技なのに、ずいぶんしつこいね」
「ごめん」
「それも祖母のため?」
「違う」
受付係が時計を見る。期限を過ぎれば延長料金がかかる。
祖母は退院し、今ではあの婚約が嘘だったと知っている。怒る代わりに、伶花へ自分で話しなさいと言った。その言葉を実行するまで、二年かかった。
伶花は壱成をまだ好きだった。けれど好きと言う資格が、自分に残っていると思えなかった。彼を傷つけた理由は一つ。嫌われるのが怖くて、恋人を相談相手から外したことだ。
「結婚したかったわけじゃない」
「知ってる」
「壱成としたくなかったわけでもない」
「今それを言うの、ずるいよ」
「うん」
逃げられないカウンターで、伶花は石けん水に指を浸した。壱成が手を出しかけ、止める。彼女がうなずいてから、初めて指先を支えた。
「演技だったのは婚約だけ」
「じゃあ、別れたあとの二年は?」
「平気なふり」
指輪が抜け、白い跡が残った。
「それも演技?」
「違う。平気じゃなかった」
伶花は指輪を返却箱へ落とした。受付を出ると、駅へ急ぐ壱成の袖をつかまず、その半歩後ろを歩いた。
最終電車の表示が消えても、タクシーを呼ばなかった。壱成が差し出した手に、指輪ではなく、返却を終えた裸の左手を重ねた。