濡れない甲板

「甲板を濡らさないでください」

王立航海学校の教官セレスト・ヴァーンは、実習船に乗るたび候補生へ雑巾を持たせた。海なのだから濡れるのは当然だ、と不満を言われても、彼女は滑れば死ぬと答えるだけ。羅針盤を磨き、縄を巻き直し、船酔いした生徒の背をさする地味な航海教師だった。

嵐の夜、見張り当番の候補生ジークは、船首の海が盛り上がるのを見た。

深海王蛇が現れた。艦隊を七度沈め、海上の魔王と恐れられた古代種。その牙が実習船へ迫る間、ほかの候補生は全員、避難訓練で船倉にいた。

セレストは甲板に落ちた羅針盤の予備針を拾った。

「進路を塞がないで」

親指で弾く。

銀の針は雨粒の間をまっすぐ進み、王蛇の眉間へ消えた。次の瞬間、海を二つに割る細い光が水平線まで走る。巨大な蛇は頭から尾まで開かれ、そのまま透明な海水へ変わった。嵐を斬り、魔王船団を一夜で沈めた元勇者の投剣だった。

ジークはマストの陰で、教官の外套すら揺れなかったことを見た。

ジークは、教官が王蛇を倒したことより、候補生全員が船倉へ入るまで待ったことに気づいた。海を割る一撃に巻き込まないためだ。英雄譚なら大胆な斬撃として描くだろう。実際の彼女は、誰の靴が滑るかまで数えたうえで剣を放つ。強さとは速さでも威力でもなく、守る相手を一人も計算からこぼさないことなのだ。

セレストは指を回す。割れた海が閉じ、雨雲だけが船を避けて流れた。甲板に残った塩と黒い鱗を雑巾で拭き、折れた手すりを縄で固定する。予備針は海底から戻り、何事もなかったように羅針盤の箱へ収まった。

船倉から候補生たちが上がってくるころ、甲板は実習前より乾いていた。

「教官、あれを一撃で……」

ジークがささやくと、セレストは濡れた彼の靴底を指した。

「見張りは足元も見るものです」

「でも、あなたは海割りの勇者でしょう」

彼女は答えず、彼へ新しい雑巾を渡した。

水平線は静かだった。セレストはいつもの実習口調で告げる。

「甲板を濡らさないでください」