灰色の丸
鳴海は、在宅勤務の日ほど席を離れられなかった。
会社のチャットでは、オンライン中は名前の横に緑の丸がつく。昼休みも、トイレも、少し横になるだけの時間も、鳴海は丸が灰色にならないようマウスを動かした。見張られているわけではない。けれど反応が遅いと思われることが怖かった。
木曜の午後、頭痛がひどくなった。画面の文字が二重に見え、こめかみが脈打つ。予定していた会議は終わり、急ぎの仕事もない。終業まであと一時間半。鳴海はソファへ横になりたかったが、チャットの緑の丸が目に入った。
同僚の名前には、緑、黄色、灰色の丸が混じっている。誰かが席を外しても、仕事は続いている。分かっているのに、自分の灰色だけは怠けの印に見えた。
鳴海は「体調が悪いので少し離席します」と書きかけた。送れば休める。けれど、戻る時刻を約束しなければ無責任に思われそうだった。「十五分ほど」と付け足す。十五分で治らなければどうするのか。「状況を見て」と書けば曖昧すぎる。
文章を直している間にも、頭痛は強くなる。画面右上で緑の丸が光り続けていた。働けていないのに、働いている表示だけを守っている。その矛盾が可笑しく、鳴海は小さく息を吐いた。
ステータスの設定を開く。「取り込み中」「離席中」「オフライン」。鳴海は「離席中」を選んだ。戻る時刻の欄は空白のままにする。説明文も入れなかった。
名前の横の丸が灰色に変わった。
それを見た瞬間、誰かから連絡が来る気がした。実際、チャットが一度鳴った。鳴海は開かず、パソコンの蓋を閉じた。
ソファへ横になり、カーテンを閉める。静かな部屋で、冷蔵庫の低い音だけが聞こえた。スマートフォンにも会社のアプリが入っている。通知を切り、伏せて床へ置く。
眠るつもりはなかったが、気づくと外が少し暗くなっていた。時計は終業時刻を十分過ぎている。鳴海は慌てて起き、パソコンを開く。未読は二件。一件は会議資料の共有、もう一件は「お大事に」と短い反応だった。誰も、なぜ灰色だったのか説明を求めていない。
鳴海はステータスを緑へ戻さなかった。終業のボタンだけを押す。灰色の丸は、仕事を放棄した印ではなく、そこにいない時間があった印として残った。