炎が廊下を曲がった日
王宮厨房の小さな油火は、三分で東棟の廊下まで走った。
石造りの壁は燃えない。だが熱と煙が通風孔を抜け、絨毯へ火を落とした。侍従たちは消火桶を持って厨房へ集まったため、背後から来た煙に追われる。王族は窓から庭へ避難し、祝宴用の東棟は黒く染まった。
防火隊長リゴルは設計図を床へ広げた。
「防火扉は閉じていたはずだ!」
「扉は閉じています。火が空気の道を通ったのです」
前日まで、結界師ミュラが廊下と通風孔へ区画結界を張っていた。火災を完全に封じる壁ではなく、熱が一定を超えた場所だけ空気の流れを折る術だ。人は通れ、煙は隣区画へ進まない。
訓練で炎が出なかったため、リゴルは彼女を「毎朝廊下を撫でるだけ」と解雇した。最初の油跳ねで、宮殿はその手の意味を知った。
同じ昼、町外れのパン屋で竈が破裂した。
店主ジュノアが叫ぶより早く、ミュラの結界が厨房の入口で赤く光った。炎は天井へ逃げ、客席には煙一筋入らない。職人たちは安全な裏口から出て、隣家へ燃え移る前に消火できた。
「店は焦げた。でも弟子も客も全員ここにいる」
「避難路だけは、火の中でも開くようにしてあります」
「商店街のみんなで頼みたい。店ごとの壁ではなく、逃げられる道を作っておくれ」
集まった店主たちは、ミュラへ防火組合の責任印を渡した。
夕方、王宮の黒い馬車が焼け跡の前へ止まった。煤まみれのリゴルが降りる。
「東棟を今夜中に区切れ。復職手当は望む額を出す」
ミュラは商店街の避難図へ最初の線を引き、顔を上げなかった。
リゴルの馬車には、焼け残った家具を守る兵が十人もいた。負傷した侍従を運ぶ者は二人だけだった。ミュラは、それを見て決心を確かめた。商店街では店主たちが、最も高価な店からではなく、逃げ遅れやすい寝たきり老人の家から結界を整えようと話している。彼女の術を建物の価値ではなく、人が逃げ切るための時間として理解していた。パン屋の焦げた扉には、無事だった客たちが白い布を結び、感謝の印にしていた。
「王宮防火隊との契約は、昨日で終了しています」