無香料の部屋
母の香水は、甘い梨の匂いがした。
麻白はその匂いを嗅ぐと息ができなくなる。逃げたあとも、電車で似た香りがしただけで座り込んだ。だから姉の梢は、洗剤も石鹸もすべて無香料に替え、帰宅した妹の服をすぐ洗った。
「外の匂いを家に持ち込まないで」
玄関には脱衣かごがあり、麻白は下着までそこで替えた。梢は親切だった。麻白の職場にも事情を説明し、香水を使う同僚と席を離してもらった。恋人には洗剤の銘柄一覧を送り、守れないなら会わせられないと告げた。翌日の服も選び、香りの強い店や人を避けるよう予定表に印を付けてくれた。
ただ、発作は決まって大切な日の朝に起きた。
就職面接の日。友人と旅行する日。初めて恋人の家へ泊まる予定の日。
クローゼットを開けると、梨の匂いがほんの少し漂う。決まって袖口か襟だけで、部屋全体には残らない。梢は窓の隙間から入ったのだと言い、カーテンまで洗った。梢はすぐ服を袋へ入れ、「今日はやめよう」と背中をさすった。
「お母さんが近くまで来たのかも」
その一言で、麻白は外へ出られなくなった。
四度目の面接を断った日、恋人が迎えに来た。梢はインターホン越しに、妹は体調不良だと断った。麻白は寝室でそれを聞き、初めて予定を姉に教えていなかったことに気づいた。それでも梢は泊まりの日を知っていた。麻白の共有カレンダーは、逃走時の安全確認という名目で姉の端末と同期されたままだった。
夜中、梢が眠ってから洗面所を探した。無香料の詰替え袋、漂白剤、古いタオル。その奥に、小さな霧吹きがあった。
一度押すと、母の匂いがした。
梢は翌朝、母の遺品から出てきただけだと言った。捨て忘れた、使っていない、と泣いた。麻白は信じるふりをし、その日のうちに荷物を運び出した。
新しい部屋で、恋人が洗いたてのシーツを広げた。何の匂いもしなかった。麻白は安心して眠った。
一方、空になったクローゼットで、梢は妹が残した面接用の上着を抱いた。
無香料の洗剤の底で、霧吹きだけが新しく満たされていた。