焼き味噌の小さな火
閉店の札が戸に触れた音を聞いて、若い客は駆け足になった。背中の配達バッグは空なのに、肩だけが重く下がっていた。
「終わりですか」
店主は消しかけた卓上炉を見た。
「焼き味噌なら、この火で」
木べらに塗られた味噌が、小さな炭火の上へ置かれた。表面に細かな泡が浮かび、ぷつぷつと弾ける。刻んだ葱と胡桃の匂いに、焦げた味噌の香ばしさが重なった。炭は赤く、息をするように明滅していた。
客は配達員だった。夕方、届け先の客から「一時間遅れた、態度も悪い」と通報された。実際には指定された建物名が違い、連絡もつかなかった。それでも運営から届いた通知には、アカウント停止の可能性があると書かれていた。
怒ったまま長い反論を書き、送信直前で店へ入った。配達をやめれば済むと思ったが、来月の学費を払う仕事はほかに決まっていない。背中のバッグには、雨で濡れた領収書と、次の講義で使う教科書が一緒に入っていた。バッグの底では、乾ききらない雨粒がまだ冷たく光っていた。
焼き味噌の端が黒くなり、店主が炉を少し遠ざけた。
「火、弱すぎませんか」
客が言うと、店主は炭を箸で整えた。
「小さいほうが長い」
味噌を舐めると、最初に塩辛さが来て、そのあと胡桃の油と葱の甘さが広がった。表面は焦げて硬く、内側はまだ柔らかい。客は自分の反論文を読み直した。怒りは正しかったが、事実が埋もれていた。
全文を消し、配達受注時刻、到着時刻、電話をかけた回数、建物の写真が保存された時刻を順番に書いた。最後に、確認を求める一文だけを足す。明日の朝、サポートへ送る。端末内の位置情報記録も消さずに残す。
停止が撤回されるとは限らない。理不尽だという気持ちも消えない。明日も同じような届け先に当たるかもしれない。それでも、勢いで仕事ごと燃やす前に、火を保ったまま伝えることにした。
店主が炉の炭を灰へ埋めた。最後に舐めた味噌は少し苦く、胡桃の香ばしい熱が、唇の内側にゆっくり残った。