片方だけの鎧戸
日が落ちると、レティシアの廃屋は歌い始めた。
西の窓に残った鎧戸が、風に煽られて、ばたん、ばたん、と鳴る。片方はとうに外れ、もう片方も蝶番一つでぶら下がっていた。音は夜通し続き、眠ろうとするたび劇場の拍手を思い出させた。
レティシアはかつて王都歌劇場の花形だった。喉を傷めて高音が出なくなると、支配人は千の拍手を忘れ、「声のない歌姫に席はない」と契約を切った。
彼女は歌えなくなったのではない。歌わない時間を選べなくなっただけだ。
だから最初の日に直すのは、西の鎧戸だけ。
窓台には、前の住人が刻んだ楽譜のような傷が並んでいた。風で金具が跳ねるたび増えた跡だ。レティシアは傷の端へ指を置き、今夜から先は増やさないと決めた。
外れた一枚は庭の草に埋もれていた。板は反っていたが、まだ使える。レティシアは湯を沸かし、布を当てて木を湿らせ、重石で少しずつ戻した。劇場で衣装の羽根を整えたときと同じく、力任せにすれば折れる。
蝶番の錆を削り、油を差す。窓枠の穴には細木を打ち込み、螺子を締め直した。
留め金は片方しかなかったので、壊れた竪琴の弦を二重にして新しい輪を作った。舞台で切れた弦は失敗の象徴だったが、家では風を止める丈夫な金具になった。
夕焼けが赤く沈む頃、左右の鎧戸が揃った。
レティシアは一度開き、遠い丘を見た。それから両方を閉じ、留め金を掛ける。風は外で唸ったが、板はもう暴れなかった。
静けさの中、鉄皿の川魚が焼ける音がした。皮の上で油が弾け、香草と焦げた塩の匂いが広がる。彼女は思わず、小さく鼻歌を歌った。音域も評価もいらない、四小節だけの歌だった。
窓辺に、劇場の魔法鏡が光った。
『新作の主役が逃亡。今夜だけ戻れば、契約を再考する』
レティシアは鏡へ布を掛けた。再考してもらう必要はない。
皿を食卓へ運ぶと、鎧戸の向こうで風が拍手のように鳴った。けれど今夜、その音に応えて立つ必要はなかった。
レティシアは魚の皮へナイフを入れ、ぱりりという小さな音だけを、自分のために聞いた。