猫がそっぽを向く夜

錦見穂高の部屋には、死んだ同居人がいた。

ただし、飼い猫のサバが見ているあいだは現れない。

サバが壁を見れば、ソファに久遠が座る。

久遠へ顔を向ければ、そこには誰もいない。

猫が毛づくろいを始めると、久遠がまた現れる。

「その猫、俺のこと嫌い?」

「見えないだけだろ」

「生きてた頃から目を合わせなかった」

「お前がしつこく触るから」

久遠は半年前、出張先で亡くなった。

部屋には彼の本や服が残り、穂高は片づけられずにいた。

サバは毎晩、玄関で久遠を待った。

その夜、穂高は久遠の姉から、荷物を送ってほしいと頼まれていた。

段ボールを広げると、久遠は嫌そうな顔をした。

「勝手に捨てるな」

「死んだ人間に収納を一部屋使わせられない」

「家賃、半分払ってた」

「今月分は?」

「香典から引いて」

サバが振り向き、久遠が消えた。

穂高は吹き出した。

久しぶりに、声を出して笑った。

箱へ本を詰める。

久遠が現れるたび、「それは残せ」「それは恥ずかしいから燃やせ」と指示した。

大学時代のノート、失敗した陶芸の皿、元恋人からの手紙。

穂高はひとつずつ仕分けた。

最後に、押入れから赤い首輪が出てきた。

久遠がサバの誕生日に買ったものだ。

派手すぎて、穂高が使わせなかった。

「つけてやって」

久遠が言った。

「嫌がる」

「一回だけ」

サバは眠そうに背を向けている。

穂高が首輪をつけると、鈴が鳴った。

猫は驚いて久遠のほうを見た。

久遠が消える。

サバは首を傾げ、またそっぽを向いた。

久遠が現れる。

それを何度も繰り返した。

見る。消える。

そらす。現れる。

「遊んでるな」

穂高が言う。

「俺と?」

「たぶん」

久遠は床へしゃがみ、触れない手を伸ばした。

サバは見ないまま、ゆっくりその場所へ近づいた。

久遠の膝があるはずのところで丸くなる。

「見なくても、いるってわかるんだな」

久遠の声が少し震えた。

穂高は箱の蓋を閉じた。

「お前のもの、全部は送らない」

「家賃」

「サバの世話代で相殺」

「高い猫だ」

夜明け前、サバが久遠をまっすぐ見た。

今度は久遠が消えても、猫は目をそらさなかった。

穂高も空の床を見た。

赤い鈴だけが、小さく鳴った。

翌日、段ボールを発送した。

本棚には久遠の本を三冊残し、ソファの端も空けたままにした。

サバはもう玄関で待たなくなった。

それでも時々、誰もいない床へ背中を向けて眠った。