猫舌のプロポーズ
小野寺杏は、コートのポケットに指輪の箱を入れたまま、カフェ〈微風〉で熱い珈琲を頼んだ。
バリスタの真壁凪は、首から真鍮の小さな扇風機を下げている。猫舌の客には勝手に風を当て、少し迷惑そうな顔で言う。
「冷めるまでが、注文です」
杏はカップへ触れもせず、十分間時計を見た。恋人との待ち合わせまで、あと四十分。今夜、自分からプロポーズするつもりだった。
「女性から結婚を申し込むのって、重いと思いますか」
「指輪は何グラムですか」
「そういう重さじゃなくて」
「では、相手に訊くしかありません」
凪は扇風機をカップへ向けた。ぶうん、と頼りない風が湯気を曲げる。
杏は三日前から考えた台詞を披露した。
『急にこんなこと言ってごめん。嫌だったら忘れて。今までどおりでいいから、できれば結婚を考えてもらえませんか』
「長いです」
「緊張してるんです」
「謝罪、撤回、現状維持。注文する前に三回キャンセルしています」
凪は紙ナプキンへ大きく一本線を引いた。
「秘密は箱ではなく、その言い方ですね。断られたとき傷つかないよう、先に全部軽くしている」
見抜かれて、杏は指輪の箱を出した。自分が結婚したいと言うことで、彼に人生の責任を押しつける気がして怖かったのだ。
「相手には断る権利があります。だからあなたには、望みを小さくしない義務がある」
「義務なんですか」
「注文を受ける側が困ります。『何でもいい』と言われるより、珈琲と決めてもらう方がいい」
凪は杏の台詞から、謝罪と撤回を二重線で消した。残ったのは、『あなたと結婚したいです。どう思いますか』。
「これだけ?」
「飲み物も言葉も、熱すぎるうちに一気に飲ませない。渡したら待つ」
凪は練習相手にはならなかった。代わりに、杏が一度だけ声に出す間、真鍮の扇風機を止めた。店内が急に静かになり、自分の言葉がよく聞こえた。
待ち合わせの時刻が近づく。杏が立つと、凪は扇風機をカップではなく、出口へ向けた。小さな風がコートの裾を押す。
「冷めるまで待つんじゃなかったんですか」
「珈琲は」
「気持ちは?」
「冷めるか確かめるために待つものではありません」
凪はぬるくなった珈琲を蓋つきのカップへ移し、杏に持たせた。
「冷めるまでが注文です。冷めても残っていたら、それがあなたの注文です」
杏は指輪の箱を握り、風に押されたふりをして店を出た。背後では次の客が、「別れ話をしたいんですけど」と座る。
真壁凪はまた扇風機を回した。
「では、熱いうちに余計なことを言わないでください」