珈琲の実が落ちるころ
山の朝は、珈琲の実が木箱へ落ちる音から始まる。
赤く熟した実だけが枝からふわりと外れ、風の道を滑って水洗い槽へ入る。果肉を外し、豆を洗い、乾燥棚へ広げるところまで、谷に住む小精霊が引き受けてくれる。
リーシャは店先の椅子で、自分のための一杯を淹れていた。
冒険者ギルドの受付にいた頃は、飲み物が熱いうちに口をつけた記憶がない。依頼票、喧嘩、未払い、失踪者。緑の制服の胸元はインクで黒ずみ、袖口は剣を抜く冒険者を止めたときに裂けた。辞職後も、緊急通信が鳴ると胃が縮んだ。
今朝は違う。湯を細く注ぎ、膨らむ粉を眺め、香りが落ち着くのを待てる。
棚の精算鐘が一度鳴った。
《乾燥豆四袋、焙煎組合が買い取り。代金入金済み》
リーシャは一口飲んだ。少し苦く、後から甘い。給金より大きな数字が表示されていたが、彼女が嬉しかったのは、一杯を飲み終えるまで仕事が増えないことだった。
受付時代、冷えた珈琲は夕方に流しへ捨てた。今は一口ごとに温度が変わるのを知っている。時間を味わえることが、売上より先に手に入れた利益だった。飲み終えたカップをすぐ洗わず、香りが消えるまで卓上に置いておける。そんな無駄さえ、今はリーシャの財産だった。
しかし旧ギルド章が青白く点滅した。
『大規模討伐の受付が混乱している。今日だけ戻ってくれ』
元支部長の声は、頼みながら命令していた。
「戻りません」
『新人では処理できない』
「新人を一人で窓口に置いたのですか」
『君が辞めるとは思わなかった』
「退職届を三か月前に出しました」
『恩知らずめ。冒険者たちが困るぞ』
リーシャはカップを両手で包んだ。
「私も十年、困っていました」
『報酬を上乗せする』
「この一杯が冷めない方が大事です」
通信を切り、旧ギルド章を引き出しの奥へ入れる。
谷では次の実が、ことり、と木箱へ落ちた。急ぐ必要はない。精霊も木も、自分の速さで働いている。
リーシャは二杯目を淹れず、椅子を日向へ移した。残った温かさを飲みきるまで、何も始めないことにした。