珈琲豆を百グラム

毎月最後の金曜日、朝子は喫茶「穂高」で豆を百グラム買う。

夫の宗明が家で飲む分だった。病気で外出が減ってから、朝子が店主の乾に好みを伝え、挽いてもらっている。

「今月は少し軽めにしましょうか」

乾は豆の瓶を幾つか開けた。朝子は順番に香りを嗅ぐ。木の実のようなもの、チョコレートに似たもの、雨上がりの土を思わせるもの。

「これがいいです」

選んだ豆を秤に載せると、針が百を少し越えた。乾は二粒だけ戻し、ミルへ入れた。低い音が店内に響き、挽かれた粉の香りが一気に広がる。

宗明は三日前、施設へ移った。家で介護を続けることが難しくなったからだ。部屋にはもう、彼のベッドも薬の袋もない。

それでも朝子は、いつもの金曜日に来てしまった。

「挽き方は、いつも通りで?」

乾の問いに、朝子は答えられなかった。施設ではコーヒーが出る。持ち込みはできても、宗明は最近、一杯を飲みきれない。

「半分、豆のままにできますか」

「もちろん」

乾は五十グラムだけ挽き、残りを丸いまま別袋へ入れた。

「豆なら香りが長く残ります」

帰宅後、朝子は一人分のコーヒーを淹れた。湯を注ぐと粉が丸く膨らみ、台所に馴染んだ匂いが戻ってきた。二つ出しかけたカップを、一つだけ棚へ戻す。

週末、施設へ豆の袋を持っていった。宗明は袋を両手で受け取り、口を少し開けて香りを吸った。

「穂高だな」

「分かるの?」

「毎朝の匂いだから」

飲まなくてもよかった。朝子は袋の口をもう一度開き、二人の間に置いた。挽いていない豆の香りは静かで、急いで消えようとはしなかった。

宗明は一粒だけ掌に載せ、指で転がした。「次はもう少し深いのがいい」と言う。朝子は笑って、来月の金曜日を手帳に書いた。飲みきれなくても、選ぶことはできる。袋を閉じても、二人の指には香ばしい油の匂いが移っていた。

窓辺の午後は静かに傾き、豆の影が二人の膝の間まで長く伸びていた。