発音記号の墓
端崎文哉は、南洋の小島で最後まで話されていたロネ語を研究していた。
最後の母語話者オロネが亡くなったとき、文哉は死者回線の研究枠を得た。目標は辞書一万語。完成すれば教授選に有利だと、同僚も本人も分かっていた。疎遠な息子には「文化を救う仕事だ」と書き送った。録音は禁止されていたため、通話中に聞き取り、発音記号へ起こす。
初日、文哉は「水」「火」「空」と順に尋ねた。
オロネは答えず、若いころ市場で魚を盗んだ話を始めた。二日目は島を逃げた恋人の悪口、三日目は隣家のヤギが葬式を台無しにした話。欲しい単語は少ししか採れなかった。
「辞書を作らないと、あなたの言葉が消えるんです」
『言葉を墓石みたいに並べるのかい』
「残すためです」
『誰が使う』
文哉は答えられなかった。論文を読む研究者はいても、ロネ語で喧嘩し、冗談を言い、子どもを叱る人はいない。
オロネは毎回、文哉自身のことを尋ねた。なぜ島へ来た。妻と別れたのはなぜ。息子からの手紙に返事をしないのはなぜ。文哉が答えを避けると、彼女はわざと最も速いロネ語で笑った。
「今はあなたの話です」
『生きてる人の話をしない言葉は、もう死んでるよ』
研究期間の最後の日、文哉は質問票を閉じた。離れて暮らす息子が来月結婚すること、招待状を机に置いたままにしていることを話した。オロネはロネ語で長く何か言った。
「今のは?」
『辞書にない言葉だよ。帰るのが遅すぎる人を、まだ席を空けて待つこと』
文哉は発音記号を書かなかった。代わりに、その言葉を何度も口にした。舌の位置を直され、十回目でようやくオロネが笑った。
帰国後、文哉は息子の結婚式へ出た。受付で息子は驚き、すぐには笑わなかった。それでも親族席の一つは、本当に空けてあった。
完成しなかった辞書を大学へ提出し、研究費を島の学校へ回すよう申請した。
翌年から、島の子どもたちとオンラインでロネ語の授業を始めた。教材は単語帳ではなく、オロネから聞いた泥棒魚と葬式ヤギの話だった。
子どもたちは話を勝手に変え、存在しなかった結末をつけた。
文哉は訂正しなかった。
言葉が保存されたのではなく、ようやく未来形になったのだと思った。