白いシャツに青いインク
衣替え初日の美術室で、青いインクの瓶を倒した。
白い夏服の胸から裾まで、海のような染みが広がった。
教室が静かになった。
家には替えが一枚しかない。母は今月の出費を気にしていた。私は笑ってごまかそうとしたが、声が出なかった。
隣の席が、筆を一本取った。
「動かないで」
「何するの」
青い染みの端へ、さらにインクを足した。
「やめて」
「もう戻らないなら、形にする」
筆先が白い布を走る。大きな染みは鯨の背中になり、飛び散った点は泡になった。
先生は止めず、むしろ布用の定着剤を持ってきた。
「制服改造は禁止だぞ」
「事故処理です」
隣は真顔で答えた。
完成したシャツには、胸元から裾へ青い鯨が泳いでいた。
校則上そのまま授業へ出るのは無理で、先生の白衣を借りた。廊下を歩くと、みんなが何事かと見た。
放課後、生活指導室へ事情を説明した。
先生は鯨を長く見て、ため息をついた。
「次からは予備のシャツを学校に置くこと」
没収も反省文もなかった。
家で母へ見せると、怒る前に笑った。
「買い直せないと思って泣きそうだった」
「私も」
翌週、同じシャツを着ていった。上に薄いカーディガンを羽織り、鯨の尾だけ少し見えるようにした。
美術室で隣が気づいた。
「着たんだ」
「泳がせないともったいないから」
その子は、進路希望にデザイン科と書くか迷っていた。家では普通の大学を勧められているという。
「人の制服に描けるなら、自分の紙にも書けるでしょ」
私が言うと、少し笑った。
文化祭のポスターは、その子が描いた青い鯨になった。
夏の終わり、シャツのインクは少し薄くなった。それでも形は残った。
失敗を消せない日もある。
けれど白い布を元どおりにすることだけが、正しい直し方ではないと、あの鯨が教えてくれた。
卒業後、その子は本当にデザインを学び始めた。最初の作品集の表紙には、制服から泳ぎ出した青い鯨が、小さく印刷されていた。
私は今も、その表紙を見るたび、泣きそうだった白いシャツの冷たさを思い出す。