白い靴下の片方
戸川彩芽は、ソラの口から白い靴下を取り上げた。赤ん坊用らしく、手のひらより小さい。かかとに黄色いひよこが縫ってある。
ソラは十七歳になっても拾い食いの癖が抜けない。だが今夜は叱れなかった。獣医から「歩かせるなら数分だけ」と言われ、明日の処置までに外へ出るのはこれが最後になる。家の前を一周するつもりが、植え込みから靴下を見つけたのだ。
汚れはない。上の階の若い夫婦が、ベランダに赤ん坊の服を干していたのを思い出した。片方を返してから帰る。それを最後の用事にした。
ソラは戦利品を奪われたことが不満で、植え込みの前から動かない。彩芽が靴下を散歩バッグへ入れると、鼻先を何度も差し込んだ。
「これは食べない」
いつもの台詞を言うと、ソラは昔と同じようにくしゃみをした。
エレベーターは点検中だった。若い夫婦は五階、彩芽の部屋は一階。階段を上る必要はない。管理人室の前に落とし物かごがある。そこへ入れ、部屋番号を書いたメモを添えることにした。
管理人室まで建物の反対側を回る。ソラは途中で座り、彩芽の靴に顎を載せた。抱き上げると、軽い体の中で心臓だけが速い。靴下の入ったバッグをソラが鼻で押すので、彩芽は少しだけ口を開けて匂いを嗅がせた。
落とし物かごには子どもの傘と、自転車の鍵が入っていた。彩芽は靴下を一番上に置き、メモへ「五階から落ちたと思います」と書いた。名前は書かなかった。
ソラを床へ下ろすと、かごを見上げて小さく鳴いた。彩芽はひよこの刺繍を正面へ向け、傘の柄に洗濯ばさみで留めた。
上の階から赤ん坊の泣き声がかすかに降りてきた。ソラは首を傾げ、エレベーターが動かない扉へ向かって一歩進んだ。彩芽は階段へ行かせず、靴下の口に残った小さな洗濯ばさみの跡を指で伸ばした。
メモの端にはソラの濡れた鼻が触れ、丸い染みが一つついた。彩芽は新しい紙へ書き直さなかった。
白い靴下は片方だけで、きちんと落とし物になった。ソラは空になったバッグへ鼻を入れ、何もないことを確かめた。