白紙の文化祭
狛江が転校してきたのは、文化祭の十日前だった。
教室ではすでに準備が始まり、壁には作業表が貼られ、班も役割も決まっていた。狛江の名前だけが、どの欄にもない。
「何かやりたいことある?」
委員が訊いた。
狛江は教室を見回した。段ボールの城、絵の具だらけの床、台本を読む声。何を選んでも途中から入り込む感じがして、「何でも」と答えた。
与えられたのは、入口の看板だった。
縦長の大きな板へ、催しの題名を書く。下書きは誰かが済ませていた。狛江は黒い絵の具で線をなぞるだけ。
放課後、一人で作業した。
一文字目、二文字目。筆跡は自分のものなのに、字の形は他人が決めている。
三文字目の途中で、委員が戻ってきた。
「進んでる?」
「うん」
「ごめん、つまらない仕事で」
「別に」
「途中からだと、入りにくいよね」
「別に」
同じ返事を二度すると、本当にそうではないことがばれた。
委員は看板の右下を指した。
「ここ、空いてる」
「日付を書くところ?」
「何でもいいところ」
狛江は小さな四角を鉛筆で囲った。
何を描けばいいかわからない。前の学校の校章。引っ越し前の駅。新しいクラスの顔。どれも看板には似合わない。
結局、白いまま残した。
文化祭当日、入口の看板は目立った。客は題名だけを見て教室へ入る。誰も右下の空白には気づかない。
昼過ぎ、狛江が受付をしていると、小学生が看板の前で立ち止まった。
「ここ、塗り忘れ?」
白い四角を指している。
「そうかも」
「描いていい?」
「何を」
「今日の顔」
小学生は受付のペンを借り、丸い笑顔を一つ描いた。
それを見たクラスメイトが、自分も描いた。来場者、先生、隣のクラス。白い四角は小さな顔で埋まっていった。
狛江も最後に一つ描いた。
髪型も目も簡単な、誰ともわからない顔。
「これ誰?」と委員が訊く。
「今日ここにいた人」
「狛江?」
「たぶん」
文化祭が終わり、看板を外す。
題名の大きな字は、作った教室名を示していた。けれど狛江が持ち帰りたいと思ったのは、右下の小さな四角だった。
転校して最初に自分の場所になったのは、誰かが割り当てた欄ではない。
塗り忘れたまま残していた、白紙の一角だった。