百人分の痛みを返さない
貴族街の診療院には、痛みを感じない患者ばかりが来た。
代わりに、地下室の聖女オデットが百人分の痛みを引き受けている。壁の銅板へ患者の名を書くと、彼らの苦痛が彼女の背中の呪印へ移る仕組みだった。
街医者のベリオは、侯爵の腰痛を診るため呼ばれた。
「薬はいらん。聖女へ移せ」
侯爵が銅板へ名を書いた瞬間、地下から押し殺した声が聞こえた。
ベリオは診察を中断し、地下へ降りる。オデットは寝台に縛られ、背中の印が赤黒く膨らんでいた。
「治療します」と彼が言う。
「私ではなく、上の方を」
「痛みのない病人は治り方を覚えません」
侯爵が衛兵を連れて追ってきた。
「その女は診療院の所有物だ。印をお前の医院へ移すなら許す」
「移しません」
ベリオは呪印へ針を刺さなかった。壁の銅板を外し、炉の上へ載せる。
板には中央に一つだけ、痛みを聖女へ送る《受領印》がある。彼は薬瓶から透明な酸を一滴垂らした。
しゅう、と白煙が上がる。
受領印が溶けると、銅板に書かれた百人の名が次々と消えた。オデットの背中からも黒い線が剥がれ、床で灰になる。
上階で侯爵が腰を押さえて叫んだ。消えていた痛みが、本来の持ち主へ戻ったのだ。
「元へ返したのか」とオデットが息を切らす。
「いいえ。あなたが抱えていた分は消しました。今の痛みは、彼ら自身の病気です」
ベリオは拘束帯を切り、出口を示した。
「東門の外に湯治村があります。紹介状は白紙にしておきました。名前も行き先も、自分で書けます」
オデットは立つまでに時間がかかった。それでも支えを求めず、一人で階段を上った。
翌週、ベリオの小さな医院には貴族からの患者が一人も来なくなった。侯爵が営業を妨害したのだ。代わりに貧民街の病人が戸口まで列を作る。
薬が尽きかけた夕方、荷車が止まった。
湯治村へ行ったはずのオデットが、薬草を山ほど積んで戻ってきた。
「紹介状は使わなかったのですか」
「使いました。村で三日休み、自分の名で薬草を買いました」
「ここへ戻れば、また痛みを見ることになる」
「見るのと、押しつけられるのは違います」
彼女は新しい診療簿を開く。最初の頁には《本人の同意なく痛みを移さない》と記し、自分の署名をした。
「助手を雇う余裕はない」
「給金が出るまで貸しにします」
「なぜ、そこまで」
「あなたは私の痛みを誰にも返さず、消してくれた。だから私は、あなたが一人で抱える仕事を半分選びます」
オデットは治療用の小鈴をベリオへ差し出した。
「命令の鈴ではありません。手が足りないときに呼んでください」
その夜、鈴は一度だけ鳴り、彼女は自分の足で診察室へ入った。