盆栽の正面
祖父の玄蕃は、盆栽には正面があると言う。
孫の詩生には、どこから見ても同じ松に見えた。
「幹の流れを見る」
鉢を少しずつ回し、枝の重なりが最も美しい向きを探す。玄蕃が選ぶ場所は毎回違うように思える。
詩生は美術部で、静物画の題材に盆栽を借りた。学校へ持っていく前に写真を撮り、祖父の決めた正面へ印をつける。
ところが美術室で見ると、その向きでは枝が窮屈だった。窓からの光に合わせ、鉢を半周回す。
描いた絵を祖父へ見せると、しばらく黙っていた。
「裏から描いたな」
「こっちのほうが広く見えた」
叱られると思ったが、玄蕃は絵を窓辺へ置いた。
「絵の正面は、お前が決める」
翌朝、盆栽を見ると、鉢が詩生の描いた向きへ置かれていた。
「正面、変えたの?」
「今日はこっちだ」
松は少し枝を剪定され、裏だった側にも空間ができている。
二人で苔へ水をやった。霧吹きの水が葉に光り、湿った土と松脂の匂いがした。
展覧会の日、詩生の絵は壁の端に飾られた。玄蕃は長く見てから、「鉢が少し歪んでる」とだけ言った。
帰宅後、二人で本物の鉢を回す。正面は一つではなく、その日の光と見る人の立つ場所で、静かに変わっていた。
玄蕃は冬の間に、松の枝を一本だけ切った。詩生が絵で広く見せた側へ光を入れるためだった。切った枝は捨てず、小さな花瓶へ挿す。春の展覧会で、詩生は今度は祖父の横顔を描いた。背景に盆栽の正面は描かず、鉢の縁だけ入れた。玄蕃は「耳が大きすぎる」と言ったが、額に入れて居間へ飾った。霧吹きの水が松葉へ当たるたび、絵の紙まで湿った土と樹脂の匂いを吸うようだった。
梅雨になると、松の新芽が伸びた。詩生が描いた輪郭とはもう違う。玄蕃は絵と木を見比べ、「育つと似なくなる」と嬉しそうに言った。濡れた苔から若い緑の匂いがした。
二人はまた鉢を半周させ、その日の正面を決めた。