真実を言えない赤ベルベット

 赤いベルベットのドレスを見た者は、尋ねられたことに真実で答える。その代わり、真実が一つ語られるたび、着る者は大切な言葉を一つ永久に発音できなくなる。

 アイナラは婚約契約の晩餐に、そのドレスを着た。

 相手の伯爵は誠実だと父は言う。だが契約書には、結婚後に彼女の薬草店を譲渡する一文が隠されていた。問いただしても「読み違いだ」と笑われた。

「店を手に入れるため、私と結婚するのですか」

 伯爵の口が勝手に開いた。

「そうだ」

 アイナラの舌から、「怖い」という言葉が消えた。心では感じるのに、音にできない。

「父は知っていましたか」

「知っていた」

 今度は「嫌」が言えなくなった。

「店員たちは解雇するつもりですか」

「結婚の翌朝に」

 「助けて」が消えた。

 失った言葉は、頭の中には残る。舌へ運ぼうとした瞬間だけ、透明な壁にぶつかる。幼いころから言いたいことを飲み込んできたアイナラには、慣れた沈黙のはずだった。けれど選んで黙るのと、二度と声にできないのは違う。三つの真実を得ただけで、彼女は恐れも拒絶も救いも、誰かに渡せなくなった。

 父も伯爵も顔色を失った。招待客の前で、契約の本当の目的は暴かれた。アイナラは署名欄を破り、薬草店の鍵を握った。

 広間の扉で、幼なじみのセドが待っていた。彼だけが、彼女がこのドレスを着ると知っていた。

「もう十分だ。帰ろう」

 アイナラはうなずいた。けれど伯爵が最後に叫ぶ。

「その男と逃げるつもりだったのか」

 問いは彼女に向けられていない。それでもセドが答えた。

「ずっと彼女を愛している。今夜、断られても連れ出すつもりだった」

 真実が一つ増え、アイナラの喉から、セドの名が消えた。

 彼は傷ついた顔で笑う。

「君は?」

 言いたい言葉は、まだ胸にある。愛している。あなたと帰りたい。けれどセドは昔から、大切な話をするときは名前を呼んでくれ、と言う人だった。

 アイナラは口を開いた。愛しているとは言える。帰りたいとも言える。ただ、彼の名だけが喉の奥で形を失う。遠回しな言葉で埋めれば、奪われたものをなかったことにしてしまう気がした。

 彼女は答える代わりに、店の鍵をセドの掌へ置き、その手を握った。

 赤い裾で、二度と呼べない名の跡だけが冷えていた。