眠らない薬箱
王立病院の創設舞踏会で、ルドルフ公子は音楽の合間に薬箱を指さした。
「貧民病棟の薬代をエルネスタが横領した。帳簿では百人分、箱には八十人分しかない。病人を食い物にする女との婚約を破棄する」
白い薬箱が開かれ、空の仕切りが並ぶ。医師たちの視線は、貴族の噂より冷たかった。
エルネスタは宴より病棟を優先し、薬価を下げるため商会と何度も争った。そのため社交界では「笑わない薬壺」と呼ばれている。ルドルフは、患者を守るためについた彼女の無愛想を、患者から奪う冷酷さへと巧みに塗り替えた。
エルネスタは箱の前へ進んだ。患者の前では何度も悪い知らせを告げてきた。自分への悪意一つで、足を止めるつもりはなかった。
「不足分を私が持ち出したと、確定なさるのですね」
「管理者はお前だ」
「でしたら、箱を眠りから起こしてください」
医務長公爵ガレノスが、蓋の内側にある銀の針を一本だけ弾いた。王立病院の薬箱は、開けた者と取り出した数量を内蔵秤に記す。記録は一度だけ投影され、以後消えるため、これが唯一の証拠だった。
白い壁に文字が浮かぶ。
――取り出し、二十人分。
――開封者、ルドルフ・ベルケン。
――搬出先、王宮猟犬舎。
病人用の高価な鎮痛薬を、王子が競走犬へ流していた。
「犬も王家の財産だ」とルドルフは反論した。
「ならば最初から、そう申請なさるべきでした」
エルネスタは空の仕切りを閉じた。
王子は周囲を見て、声を潜める。
「婚約破棄は撤回する。お前が病院に残れば、患者も困らない。私の評判も守れる」
「患者を人質に、私の人生まで処方しないでください」
彼女は婚約指輪を外し、薬箱の上へ置いた。
「その薬は、あなたには効きません」
エルネスタが背を向けると、ガレノスは病棟へ続く扉で手を差し出していた。新設する無料診療所の共同責任者になるか、彼女自身に決めさせる静かな手だった。
エルネスタは空の仕切りを振り返らず、眠らない患者たちの方へ歩いて、その手を取った。