秒針のない午後
矢吹翠は、無秒堂の奥で、針が二本しかない腕時計を見ていた。
乳白色の文字盤に短針と長針だけ。秒の目盛りもない。店主が竜頭を巻くと長針は動いたが、翠には止まって見えた。
休職して六週間になる。最初の二週間は眠り、次の二週間は病院と買い物へ行けるようになった。最近は午前中に洗濯までできる。それなのに、会社へ提出する面談票の〈復職希望日〉を前にすると、何も回復していない気がした。
上司からは月曜に戻れるかと聞かれている。医師は、少なくともあと二週間は必要だと言った。翠自身もそう思う。それでも一日延ばすたび、同期から何秒ずつ遅れるのかを計算してしまう。
洗濯に十二分、散歩に二十三分、昼寝に四十七分。休む日さえ、回復の成果を秒単位で採点していた。医師の「焦らないで」まで、期限のない課題に聞こえた。時計を見るたび、採点表を開いているようだった。
「時刻は合わせますか」
店主が聞いた。
翠はスマートフォンの表示を見せた。午後三時十七分四十二秒。店主は短針を三と四の間へ、長針を十七分あたりへ置いた。四十二秒を数えることはせず、竜頭を押し込む。
時計は動き始めたはずなのに、見た目は静かなままだった。
店主は保証書の機能欄へ〈時・分〉と書き、〈秒〉の欄には斜線を引いた。精度については一日あたりの差を記したが、秒を表示しないことを欠陥として扱わなかった。
翠は面談票を開いた。復職希望日を二週間後へ変更し、備考欄へ〈主治医の判断に従い延長します〉と入れる。申し訳ありません、迷惑をおかけします、早期に取り戻します。自動的に浮かぶ三文を、どれも書かなかった。
送信すると、店主は時計を箱へ入れず、翠の手首へ留めた。帯をきつくしない位置で止め、余った先を革輪へ通す。
店を出るまでに、長針はたぶん一分進んだ。翠にはその瞬間が分からなかった。
分からなくても、午後は少しずつ過ぎている。翠は会社の端末を鞄の底へ入れ、時計にない秒を数えず、駅とは反対の公園へ向かった。