空になった水槽

文化祭で展示したメダカを理科室へ戻すと、教室には空の水槽だけが残った。ほかの係は模造紙や机を運び終え、先に打ち上げへ向かった。水槽を片づける担当は、最初から初音と郁海の二人だった。逃げようと思えば頼めたのに、初音は残った。

初音と郁海は向かい合って持ち手を探した。水を抜いたばかりのガラスは冷たく、内側に何本もの水位の跡が白く残っている。底には青い砂が数粒だけ貼りつき、展示説明の札には〈同じ水でも、流れが変われば生き方が変わる〉と郁海の字で書かれていた。文化祭中、初音はその文章を何度も読んだのに、感想を言えなかった。

郁海は来月、海辺の町にある全寮制の学校へ転校する。研究したいことがある、と夏休みから準備していた。初音は応援すると言いながら、文化祭の間ずっと彼女を避けた。説明係の交代も別の子に頼み、昼食も教室の外で食べた。郁海が楽しそうにメダカの話をするほど、自分だけ置いていかれるように感じた。最後の行事を一緒に楽しんだら、別れが本当になってしまう気がしたからだ。

「持つよ」

郁海が言い、二人で水槽を持ち上げた。

軽すぎて、初音の腕が勢い余った。空になったものは重いと思い込んでいたのに、水のない水槽は拍子抜けするほど軽かった。ガラスの角が机に当たり、澄んだ音がした。

「ごめん」

「割れてない」

郁海は笑わなかった。初音も笑えなかった。

廊下へ出る直前、夕日がガラスを通り、天井に揺れる光をつくった。水はもうないのに、教室の上だけ小さな波が走った。二人の顔もガラスへ重なり、角度を変えるたび離れたり、また重なったりした。

初音は水槽をいったん床へ置いた。

「向こうの海、写真送って」

言えたのは、それだけだった。

郁海は「うん」と答え、持ち手を変えた。約束がずっと続く保証はない。返信が遅れる日も、話すことがなくなる日も来るかもしれない。それでも、別れないふりをするより、離れたあとの言葉を一つ決めたかった。

二人は水槽を持ち直し、廊下へ出た。空のガラスの中を、理科室の緑色の扉が前へ進んでいく。

初音は振り返らず、郁海と同じ速さで歩いた。