空席を選ぶスワイプ
二十時五十分。矢島亘希は球場の一塁側で、宮坂知花とマッチした。七回裏が終わるまで、およそ十分。アプリの距離は二百メートルだった。
知花は三塁側の席にいた。隣には背の高い男。二人で同じチームの帽子を被っている。亘希の膝には、期限切れの年間指定席カードが二枚あった。付き合っていた頃、知花は必ず左の席に座り、負け試合でも九回まで帰らなかった。別れの原因も、彼女の転職話を亘希が試合中に聞き流したことだった。決勝打に立ち上がり、戻ったときには知花の話が終わっていた。彼は後で聞くつもりだったが、彼女は応援より優先される日は来ないと結論づけた。亘希は翌年から左席も買い続けたが、招待を送れば未練だと思われる気がして、電子券を一度も共有しなかった。左席のドリンクホルダーには、知花が貼った小さな星のシールが残っている。清掃員も剥がさなかった。
プロフィール写真にも、その左席が写っていた。自己紹介は〈空いているなら、また座りたい〉。亘希は期待して右へ動かしたが、男を見て自分の勘違いを悟った。
〈楽しそうだな〉と送る。
返事はない。球場の回線は混雑し、送信中の輪が回り続ける。亘希は空席を荷物置きにし、ビールを飲んだ。
八回表、知花の隣の男がこちらへ来た。
「姉から預かりました」
弟だった。渡されたのは、亘希が知花へ貸した古い応援タオル。端に二人の観戦日を油性ペンで書き続け、別れた年で止まっている。
「姉、そっちへ行っていいか送ったらしいんですけど」
ようやくアプリが更新される。送信時刻は二十時五十一分。
〈隣、まだ空いてる? 弟に最後の試合を見せたら、そっちへ行く〉
続いて、亘希の〈楽しそうだな〉が送信済みになる。知花はそれを、拒絶と受け取ったらしい。彼女は席を立ち、出口へ向かっている。
亘希の左席には、直前に案内された別の客が座ってしまった。昔の場所はもう空いていない。
彼は三塁側に一席だけ残った電子券を購入し、応援タオルを首へ掛けて通路を走った。