窓際の引継書
最終列車まで十分。早川賢治は営業部の窓際で、最後の引継書を閉じた。翌日から地方子会社へ転勤する。昇進を伴わない、期限もない異動だった。
塩谷美沙が、彼の机へ小さな封筒を置いた。中で鍵が鳴る。
「部屋の鍵。今日で返す」
「分かった」
「理由、聞かないんだ」
「聞いても答えは変わらないだろ」
美沙は半年前から部長の執拗な誘いを受けていた。賢治にだけ相談し、「大事にしたくない」と頼んだ。先週、監査が突然入り、部長は自宅待機になった。同じ日に賢治の転勤が決まった。美沙は、相談した夜に彼が録音を複製し、時刻と場所をノートへ書き留めていたことを知らない。賢治も、彼女が自分を待つつもりだったことを知らなかった。
美沙は、彼が騒ぎを避けるため地方のポストを選んだのだと思っている。
「私を守るふりをして、結局逃げるんだね」
「そう見えるなら、それでいい」
「否定してよ」
「調査中のことは話せない」
守秘義務の同意書に署名した賢治は、自分が匿名で証拠を提出したことも、報復を避けるため会社が彼を一時的に異動させることも言えなかった。
十九時五十七分。彼は引継書を美沙へ渡す。
表紙には、二人で残業した夜のコーヒー染みがある。美沙が「汚いから作り直して」と言い、賢治が「同じ内容ならこれでいい」と使い続けた冊子だ。
「地方で、新しい人を見つけるの?」
「そのほうがいいと思うなら」
「最低」
美沙は封筒を机へ押しつけ、先に会社を出た。
十九時五十九分、監査室から全社員へ通知が届いた。部長の処分決定と、申告者への報復防止措置。個人名は伏せられている。
賢治は携帯を伏せ、列車へ急いだ。
美沙が引継書を開いたのは、彼が改札を通ったあとだった。最終頁に、消し忘れた鉛筆書きがある。
〈二月十三日、塩谷から相談。証拠保全。自分の異動で接触を断てるなら受諾する〉
その下に、転勤期間は調査終了までの三か月と記されていた。
美沙は駅へ走った。ホームへ上がると、列車の尾灯が闇へ消えるところだった。
彼女は返却用の封筒を破り、合鍵を自分の鍵束へ戻した。三か月後まで、賢治には知らせないことにした。