第三条を赤で消す
聖女フィオナは婚約契約へ署名した途端、治癒魔法を失った。第三条に「妻は余剰魔力を夫家へ譲渡する」と書かれていたからだ。グレイグは力を得ると、役目を果たせなくなった彼女を偽物と呼び、婚約を破棄した。
神殿を追われた夜から戻った先は、契約室。白い羊皮紙と鵞鳥の羽ペン。グレイグは前と同じ調子で笑う。
「形式だけです。ここへ署名を」
一度目のフィオナは細かな字を読まず、名を書いた。今度は机に置かれた赤い訂正用インクへ羽ペンを浸し、第三条を一本の線で消す。
「力を捨てる婚約は、形式ではありません」
グレイグの父が椅子を蹴った。
「妻の魔力を家へ納めるのは古い慣例だ」
「神殿法にはありません。あるなら条番号をどうぞ」
前の人生で力を失った後、フィオナは法庫の掃除をしながら全条文を読んだ。答えられる者はいない。
グレイグが彼女の手首をつかむ。
「署名しなければ、聖女の任命も取り消されるぞ」
「それを決めるのは、あなたではない」
フィオナが手を引くと、未署名の契約書から黒い鎖が現れた。偽造条項に仕込まれた魔力吸収術だ。赤線に触れた鎖は音を立てて砕け、光が彼女の胸へ戻る。
さらに、隣室で治療を待っていた子どもの咳が止まる。奪われるはずだった魔力は、契約家の宝石へ流れず、本来届くべき患者へ渡ったのだ。扉の外から歓声が上がり、グレイグの父は初めて自分たちが失うものの大きさを知った顔をした。
部屋中の傷んだ聖花が、一斉に開いた。
神殿長は羊皮紙を拾い上げ、裏面の家紋を確かめる。
「私印による神殿契約の改竄。グレイグ家の婚姻推薦資格を停止する」
前回は署名と同時に灰になったフィオナの聖女印が、今回は眩しい金色へ変わった。契約台の表示も書き換わる。
《魔力譲渡:不成立》
《聖女任命:継続》
グレイグは開いた花々を見回し、声を震わせた。
「君に魔力が戻るなんて、聞いていない」
それは愛する人へ向ける言葉ではなかった。フィオナは赤い羽ペンを置き、婚約欄ごと二本目の線で消した。