終点ひとつ前の弁当

駅売店のバックヤードから、若松澄香の弁当が消えた。

それは自分の昼食ではなく、父のために作ったものだった。駅の保線区で働く父とは、三日前に些細なことで口をきいていない。終点の詰所へ届けようと思いながら、渡したら自分が先に折れたようで悔しく、棚に置いたままにしていた。

喧嘩の原因は、父が澄香の転職を「逃げ」と呼んだことだった。父は翌朝からいつも通り新聞を読み、澄香もいつも通り味噌汁を置いた。二人とも普段を演じるのが上手すぎて、謝る入口だけが見つからなかった。

午前中にバックヤードへ入ったのは、車掌の越前、清掃員の唐沢、毎朝新聞を買う白石。越前は釣り銭を崩し、白石は忘れた傘を取りに来た。唐沢は清掃カートごと十分ほど姿を消している。

棚には臨時入場証の切れ端。父の好きな甘口醤油の小袋が一つ落ちている。唐沢のカートからは、保冷用の銀色ポーチがなくなっていた。

正午のホームには、ブレーキの金属音と売店の揚げ物の匂いが混じっていた。十二時過ぎ、父からメッセージが届いた。

〈終点で受け取った。ごちそうさま〉

澄香はすぐ唐沢を見つけた。彼はホームの端でモップを洗っていた。

「勝手に運びましたね」

「弁当は時間にうるさいからね」

「私、届けるとは言ってません」

「届けないとも言ってなかった」

唐沢は、終点へ向かう清掃便の乗務員にポーチを託したのだという。臨時入場証はホームへ出るため、醤油は父が昔から好むものを売店で買い足した。

「喧嘩は本人たちのものだから、口は出さないよ」

唐沢は水を切った。

「でも弁当が傷むのを見ているのは、清掃員の仕事じゃない」

父から二通目が来た。

〈卵焼き、焦げてた。明日は俺が作る〉

謝罪はどこにもない。けれど明日、という言葉はあった。父が作る卵焼きは砂糖を入れすぎて、毎回焦げる。明日の失敗まで含めて約束されたことが、澄香にはうれしかった。

澄香は弁当に入りきらず残していた端の卵焼きを、売店の奥で口に入れた。確かに少し焦げている。

唐沢に聞こえるように言った。

「明日の便も、空けておいてください」

終点行きの電車が、静かに扉を閉めた。