絵文字を外した夜
仁科遥香は、断る文ほど明るくする。
「ごめんなさい! 今日は難しいです🥲」「またぜひお願いします😊」
本当は困っていても、怒っているように見えないよう、絵文字を足す。すると相手は、まだ頼めると思うらしい。先月も休日出勤を断ったつもりが、「少し遅れても大丈夫だよ」と返され、結局向かった。遥香の文には、相手が引き返せる余白より、自分の断りを取り消せる余白のほうが多かった。読み返すたび、誰を安心させたい文章なのかわからなくなる。姉には何度も、「断るときまで相手を励まさなくていい」と言われた。けれど遥香は、短い文の向こうで相手が眉をひそめる場面を勝手に作り、その表情を消すために記号を足した。絵文字が増えるほど、本当の気持ちは文章の奥へ引っ込んだ。
金曜の夜、ネイルサロンで指先を乾かしている最中にも、店長から「急で悪いけど今夜出られる?」と届いた。遥香は姉と食事の約束があったが、「大丈夫です!」まで打った。
担当の女が、遥香の手からスマートフォンをそっと離した。五十代の依子は、塗ったばかりの爪についた小さな傷を見ている。
「その笑った顔、誰の顔?」
「絵文字です」
「あなたの顔じゃないのね」
依子は傷を細い筆で直した。
「次に断るとき、一文だけ。絵文字なし、謝る言葉なしで送ってみて」
「冷たく見えませんか」
依子は答えず、「手、動かさないで」とだけ言った。正解より、乾くまでの三分を守るほうが大事らしい。
遥香は結局、「大丈夫です!」を消せないまま画面を閉じた。店を出ると、姉から「先に店入ってる」と連絡が来る。すぐ後に、店長から電話。出なかった。続けて「来られるよね?」と届く。
歩道の端で立ち止まり、遥香は返信欄を開いた。
「ごめんなさい」を打って消す。「今日は予定があって」を打って消す。泣き顔も、手を合わせる絵文字も出さない。
一文だけ残った。
「今夜は引き受けられません。」
爪の表面は、街灯の下で静かに光っていた。遥香は親指で送信を押し、既読がつく前にスマートフォンを鞄へ入れた。