緑の豆ごはん
加賀谷澪香は、退職届を鞄に入れたまま、母の豆ごはん弁当を開いた。市役所の昼休み、窓の外では新しい庁舎の工事が進んでいる。母は、娘が公務員になった日を人生でいちばん安心した日だと言った。
澪香は陶芸家の工房で働く話を受けている。給料は今の半分近く、契約は一年ごとの更新だ。それでも、休日に土を触るだけでは足りなくなった。母にはまだ言えない。奨学金を返し終え、ようやく親を安心させたのに、自分から不安定な場所へ戻るのは、わがままに思えた。
弁当箱には豆ごはんだけが、平らに詰められていた。蓋を開けると、青い豆の香りがし、ごはんはまだわずかに温かい。緑の粒が均等に散っている。澪香は子どものころ、豆を全部よけ、最後にまとめて母の皿へ移した。
今日も最初の一粒を箸で端へ寄せた。二粒目、三粒目と並べる。白いごはんの上に、緑の列ができた。きれいに分ければ、母の望む安定と、自分の望む仕事も、どちらかを汚さずに置ける気がした。
けれど四粒目は、ごはんへ沈んで取り出せなかった。澪香はそのまま一口食べた。薄い皮が歯の間で弾け、内側は柔らかかった。思っていたより甘い。
端へ並べた豆を一粒ずつ戻す。白い部分だけを食べたあとで、緑だけを飲み込む必要はない。同じひと口の中で、違う歯触りがあってもよかった。
弁当を半分食べたところで、退職届を取り出す。紙の上へ豆を一粒落とし、淡い跡をつけてしまった。澪香は拭かなかった。きれいな決断ではないことを、隠さなくていい。
残りを最後まで食べ、空の箱へ退職届を折らずにのせた。
帰宅したら、母に箱を返す前に話す。安心を壊すのではなく、安心だけでは足りない娘だったと伝える。
澪香は、端へよけていたころの自分を責めなかった。あのころは豆が嫌いで、今は少し好きになった。それだけだ。安定を選んだ過去も、土を選ぶ今も、一方を嘘にしなくていい。好みが変わるように、働き方も変えてよかった。
最後の豆の甘さが、まだ舌の奥に残っていた。