群青を塗り残す
姫野藍子の仕事机には、固まった群青の絵の具がある。蓋は開かず、チューブの腹には高校名が油性ペンで残っている。企画の中止通知を読んだ夜、藍子はそれを強く握った。社内チャットには「次に切り替えましょう」という短い文が並び、半年分の作業だけが共有フォルダの奥へ移されていた。画面を閉じても、指先にはマウスを握る形が残った。
美術部最後の仕事は、取り壊される旧校舎の壁に卒業制作を描くことだった。海を知らない町の学校に、大きな海を描いた。三年生十二人で壁を青く塗り、魚や波や船を重ねた。
完成予定日の夕方、右下に畳一枚ほどの白い部分が残った。西日がそこだけを照らし、海の中に四角い窓が開いたようだった。群青が足りなかったのだ。買いに行く時間も、予算もない。
藍子はパレットに残った青を水で薄めた。何度重ねても、壁の白は透けた。ここだけ未完成のまま卒業するのが悔しくて、筆を強く押しつけた。
後輩が、藍子の手から筆を受け取った。
「ここ、来年描いてもいいですか」
旧校舎は夏に壊される。来年などない。藍子がそう言う前に、後輩は白い部分へ小さな鉛筆線を引いた。波の続きではなく、岸へ上がる一本の階段だった。
「じゃあ、壊されるまでに」
三年生たちは群青の手で、壁の前に並んだ。写真には、完成した海より白い階段の方が明るく写った。藍子は空になった群青のチューブを、汚れたエプロンのポケットへ入れた。
翌年、校舎は予定どおり取り壊された。後輩が階段を塗ったか、藍子は聞かなかった。
今の藍子は広告会社で、半年かけた企画を失った。画面には、使われない画像と文章が整然と並んでいる。完成させれば報われると信じて、細部を磨き続けたものだった。
彼女は固まったチューブを机に置き、企画フォルダの最後へ白い一枚を追加した。そこに、途中まで考えていた次の案の線を引く。海ではなく、駅のホームだった。
中止された企画は消さず、保存して閉じた。
白く残る場所は、失敗の穴ではない。まだ誰の色にも決まっていない出口だった。
藍子は新規ファイルを開き、最初の線を引いた。