聖人の亀裂
ニケフォル・ダラスは、聖人像の喉へ亀裂を入れた。
金箔を貼った板絵で、右手に剣、左手に城を載せた守護聖人が描かれている。亀裂は髪ほど細く、喉から額縁の一本の釘へ続く。釘は中空で、密書を巻いて差し込んであった。
包囲軍は明朝、聖堂砦へ総攻めをかける。外の救援軍は夜半に到着する。密書の命令は、鐘が三度鳴ったら東の小門を開け、救援軍を入れろ。それだけだった。
ニケフォルは奪われた聖像を返す修復師として、停戦の橋へ立った。
敵将ヴァレリオス・ケムが像を受け取り、裏板を剥がした。木屑が川へ落ちる。何もない。
額縁の四隅も叩き、金箔へ針を滑らせる。針先が喉の亀裂で止まった。
「新しい傷だ」
「橋で兵が箱を落としました」
「聖人は落としても血を出さぬ」
「人も、死ねば出しません」
ヴァレリオスは針を亀裂へ入れた。あと指一本進めば、中空の釘へ当たる。
周囲の兵が息を止めた。聖人の顔を傷つけた将が、翌日の戦で死ぬという迷信を、ヴァレリオス自身が広めてきた。兵を前へ出すための嘘だった。
ニケフォルは言った。
「もっと深く。明日の敗因を聖人のせいにできます」
将の頬が動いた。刃を引けば臆病、押せば自分の迷信を壊す。
ヴァレリオスは針を捨てた。
「砦へ渡せ。修復師は残せ。攻城塔の絵具を塗らせる」
聖像だけが橋を渡り、ニケフォルは敵岸へ縛られた。
橋の中央では、敵味方の僧が聖像へ一度ずつ口づけた。ニケフォルだけは触れなかった。自分の唇に金粉がつけば、修復した場所を敵に教える。信仰の薄い男に見せることが、今夜の信仰だった。聖人がそれを赦すかは、扉が開いた後に考えればよい。
砦の司教テオドロス・アンは像を見るなり、亀裂の先の釘を抜いた。紙を読み、蝋燭で焼く。橋向こうのニケフォルには、その火だけが見えた。
「絵具を塗れ」
敵兵が命じる。
ニケフォルは攻城塔へ黒を塗り始めた。夜明けには自分の塗った塔が聖堂へ迫る。それでも筆は震えなかった。
真夜中、聖堂の鐘が三度鳴る。
テオドロスが杖を上げた。
「東の小門を開けよ」
青銅張りの扉が、闇へ割れた。