若返り注射の空ロット
美容診療所《ベルエクラ》の院長、周防柊一は、生理食塩水を「再生細胞注射」と称して一本百万円で売っていた。
看護師の依子が薬剤庫に有効成分の入荷がないと指摘すると、周防は患者の前でカルテを投げた。
治療費を工面するため定期預金を解約した患者もいた。腫れが出ても周防は「若返りの好転反応」と説明し、診察せず次の高額注射を勧めた。依子が受診を手配するたび、売上妨害だと減給された。
「看護師に医学は分からない。余計な説明をしたら守秘義務違反で訴える」
診察室で彼は、注射を受ければ十歳若返ると断言した。患者が不安がると、製造証明書へ自ら署名する。
「ロットA-000。私が開発した特別製剤です。効果がなければ全額返金します」
患者は証明書を胸へ抱き、「孫の結婚式まで元気でいたい」と笑った。依子が目を伏せると、周防は診察室の扉を閉めた。彼女の前で返金保証のポスターを剥がし、「証拠になる紙は今日中に捨てろ」と命じた。患者が出た後、空の瓶を依子へ渡した。
「水を詰めて同じラベルを貼れ。監査が来たら、お前が薬を抜いたことにする」
依子は瓶を受け取り、廃棄せず保管庫へ入れた。
翌日、保健当局の査察が入る。周防は、依子が本物の薬剤を盗み、水と交換したと主張した。
査察官は瓶のQRコードを読み取る。画面には《該当ロットなし》と表示された。正規の医薬品ロットにゼロから始まる番号は使われない。
周防はラベル印刷を依子に任せたと言い逃れた。
しかし製造証明書には、彼自身の電子署名と顔認証記録がある。さらに院内の自動発注システムには、周防が生理食塩水だけを大量購入し、備考へ《再生注射用、箱は処分》と入力した履歴が残っていた。
最後に患者の同意録音が再生される。
――私が開発した特別製剤です。
――効果がなければ全額返金します。
周防が署名を撤回すると叫ぶ中、査察官は医師会の処分書を開いた。
「周防柊一。医師資格の緊急停止、および詐欺容疑による身柄拘束を通知します」