蛾の車掌と消灯切符
終電を逃した人だけが乗れる白い夜行バスがある。
奈々美が停留所で手を上げると、運転席の横に立つ車掌は、灰白色の制服に大きな蛾の羽を畳んでいた。銀の切符鋏が、月明かりを弾く。
「明るいところは苦手だ」
蛾のあやかし燐夜は、車内灯をすべて消した。人間は光があると、見せなくていい顔まで見せ合うから嫌いらしい。
奈々美が差し出した行き先は、郊外の結婚式場だった。
明日の朝、妹が結婚する。奈々美は二年前、父と喧嘩して家を出て以来、実家へ帰っていない。招待状には返信せず、式場近くのホテルだけ予約した。出席するかどうか、まだ決められない。
「どこで降りますか」
「それを相談したくて」
「バスは人間の決心まで運ばない」
燐夜は招待状を受け取り、銀の鋏で隅に穴を開けた。
暗闇の中、穴から街灯の光が一粒だけ差し込む。
「妹さんは何と」
「来てほしい、と。でも父もいるから、無理しなくていいって」
「人間は一つの文に反対のことを詰める。嫌いだ」
「私も、会いたいし、会いたくない」
燐夜は次々と切符へ穴を開けた。
会いたい。
怖い。
祝いたい。
許してはいない。
どれも同時にあっていい、と穴の数だけ言った。
「一つに決めなくていいんですか」
「降りる場所は一つでも、持っていく気持ちは一つでなくていい」
バスは式場前と、その次のホテル前の間で速度を落とした。
奈々美は降車ボタンへ手を伸ばし、止めた。父に会う準備はない。でも妹のドレスは見たい。
「式場の裏口で降ろせますか」
「正規の停留所ではない」
「無理ですよね」
「人間の規則は嫌いだ」
燐夜は銀の鋏を一度鳴らした。バスは式場の搬入口へ静かに止まる。
扉が開く直前、奈々美の席だけに小さな灯りがついた。
燐夜は眩しそうに目を細める。
「明るいところは苦手では」
「苦手だ」
彼は穴だらけの招待状を返した。裏側には、光の点で小さな道ができている。
「苦手でも、誰かの足元くらいは照らせる」
奈々美は裏口から降り、妹へ『朝、支度部屋に行ってもいい?』と送った。
白いバスは灯りを消し、夜の向こうへ飛ぶように走り去った。