裏表紙の小さな嘘
村雨葉月は、姉の家で姪を預かることになり、古本の育児エッセイを借りた。余白には鉛筆で短い記録がある。
〈今日は泣かなかった〉〈野菜を全部食べた〉〈一度も怒らなかった〉。完璧な親の記録に見えて、読むほど葉月は苦しくなった。
その夜、葉月は姪が母親を呼んで泣くたび、動画を見せ、菓子を渡し、最後には自分まで泣いた。帰宅した浜野は責めなかったが、葉月は「向いてない」と何度も謝った。翌朝も罪悪感が残り、完璧な記録の並ぶ本を読むと、姉は一度も失敗しなかったように見えた。新しい一行だけが、その整った嘘へ小さな穴を開けていた。
初めての留守番で姪を泣かせた翌日、裏表紙に新しい一行が増えた。
〈泣いたけれど、抱っこした〉
本に触れたのは姉の浜野、義兄の皆川、送迎を手伝う羽鳥の三人だった。
手掛かりは三つ。新しい字の「た」だけが姉の癖で跳ねる。鉛筆には姪の星形シールがついていた。そして過去の「泣かなかった」の下を斜めから見ると、消された「私も泣いた」が残っていた。
皆川は育児書を読まないと言い、羽鳥の字は丸く大きい。姉だけが「その本、まだあったの」と言ったあと、裏表紙を確かめようとした。葉月は問い詰める代わりに、姪が泣いた夜のことを最初から話した。失敗を白状すれば、姉も本当の記録を話してくれる気がした。
葉月が本を返すと、浜野は洗濯物を畳む手を止めた。
あの記録は、自分を励ますためについた小さな嘘だった。眠れない夜、出来なかったことではなく、出来たことだけを書くつもりが、いつしか失敗を消すようになったという。
「葉月が泣かせたって謝るから、同じことをさせたくなくて。泣いても抱けたなら、それでいいって書きたかった」
直接言えば姉らしく説教になりそうで、本へ残したらしい。
葉月は古い頁へ鉛筆を入れた。
〈姉も、ちゃんと泣いていた〉
浜野は抗議しようとして、先に笑った。
そこへ姪が動物形のビスケットを二枚持ってきた。一枚を葉月の口へ押し込み、もう一枚を自分でかじる。
「きのう、いっぱい泣いたね」
葉月は甘い欠片を飲み込んだ。
「うん。でも、いっぱい抱っこした」
姪は満足そうに頷いた。
「じゃあ、もう一個」