触りたい色
丹羽鈴芽のクローゼットには、白、紺、ベージュしかなかった。職場で浮かない色。母が品よく見えると言う色。以前の恋人が「派手なのは苦手」と言った色以外。
別れて半年になるのに、服を選ぶときだけ、その人の好みが鏡の前へ戻ってきた。
恋人だけではない。会議では頼れそうに見える色、取引先には柔らかく見える形、家族写真では浮かない丈。鈴芽は場面ごとに正解を選び、どの服にも不満を言わなかった。その代わり、買った日のことを覚えている一着がほとんどなかった。
会社の表彰式を翌日に控え、鈴芽は駅ビルで服を探していた。試着室へ持ち込んだのは、また薄いベージュのワンピースだった。鏡に映る自分は失敗していない。失敗していないが、選んだ感じもしない。
照明が一度またたき、鏡の表面に白い曇りが広がった。指で書いたような文字が浮かぶ。
〈似合う色ではなく、触りたい色はどれですか〉
鈴芽が振り向いても、店員はいない。鏡には続きが現れた。
〈目を閉じて、一着だけ触ってください〉
試着室の外には、店員が運んできた服のラックがある。鈴芽は半信半疑で目を閉じ、手を伸ばした。指に触れたのは、つるりと冷たい生地だった。
目を開ける。深い青のワンピース。海の底のような色で、鈴芽が自分から選んだことは一度もない。指先で撫でると、布は光の角度で青から黒へ変わった。誰かにどう見えるか決める前の色は、名前よりも先に、触れた感覚として残った。試着すると、顔立ちが強く見えた。強く見えるのが怖くて、すぐ脱ごうとした。
鏡はもう普通に戻っている。似合うとも、似合わないとも書いていない。
カーテンの向こうから店員が「いかがですか」と尋ねた。鈴芽はいつものように「もう少し考えます」と言いかける。
明日の表彰は、誰かに選ばれた仕事の結果ではない。鈴芽が半年かけて企画を通したものだった。そのことだけが、青い布の重さとして肩に乗っている。
カーテンを開け、値札を手に取る。
「これを着て帰ります」
店員が目を丸くする間に、鈴芽はベージュのワンピースをラックへ戻した。