読み終わるまで帰らない
彼は本が嫌いだと言っていた。
国語の時間は窓を見て、音読を当てられると保健室へ逃げる。だから図書室で一人、児童文学の棚を見ているのを見つけたとき、声をかけるか迷った。
本棚越しに目が合い、彼のほうが先に言った。
「笑うなよ」
手にしていたのは、小学生向けの冒険物語だった。
「好きなの?」
「映画が好き。原作、読んでみたい」
けれど文字を追うと行を飛ばし、何度も同じ場所へ戻ってしまうという。内容が幼いからではなく、長い文章を読むことそのものに時間がかかる。
「だから本が嫌いって言ってる」
彼は本を棚へ戻そうとした。
私は同じ本を取った。
「一冊しかないよ」
「二人で読む」
窓際の席に並び、見開きを机の中央へ置いた。私は右のページ、彼は左のページ。読み終わったら指で合図し、二人とも終わるまでめくらない。
最初の一ページに十分かかった。
彼は何度も「先にめくっていい」と言った。私は「私も遅い」と嘘をついた。
三日目、その嘘がばれた。
「待たれるの、嫌なんだ」
彼は本を閉じた。
「迷惑かけてるみたいで」
私は黙ってしおりを挟んだ。
「じゃあ、待たない」
翌日から、別々の本を持って同じ席に座った。彼が一ページ読む間に、私は何ページも進んだ。けれど帰る時刻だけは合わせた。
彼が読み終わるまでではない。閉館まで、互いに自分の速さで読む。
物語の面白いところへ来ると、彼は付箋に短い感想を書いた。
『船、沈んだ』
『主人公、弱すぎ』
『でも戻った』
私も自分の本の感想を返した。
『犯人、先生だった』
『猫がいちばん強い』
『泣いてない』
会話をしなくても、二冊の物語が机の上で並んだ。
一か月後、彼は冒険物語を読み終えた。
最後のページを閉じても、すぐには立たなかった。
「映画と違った?」
「こっちのほうが、遅い」
悪い意味かと思ったら、彼は笑った。
「遅いから、主人公が怖がってる時間も分かった」
貸出カウンターで返却すると、彼は同じ作者のもっと厚い本を借りた。
「今度は何日かかるかな」
「返却期限、延長できるよ」
「そうじゃなくて」
彼は窓際の席を指した。
「読み終わるまで、来る?」
私は自分の本を抱え直した。
「閉館までは」
それから彼は、本が嫌いだと言わなくなった。好きだとも言わなかった。
ただ、ページをめくる合図を誰にも急かされない場所へ、毎日来るようになった。