赤糸の相続
貴船宙也は、亡母の仕立て店を閉めるため、在庫と道具を整理していた。二十八歳。裁縫箱の底から、赤い糸で縫い閉じた黒い上着が出てきた。
母の顧客台帳には、上着の写真と一つの注意がある。
《遺品につながる赤い糸を、切ってはいけない》
貴船家では死者の服と生者の服を一本の赤糸でつなぎ、四十九日後に糸が自然に抜けるのを待つという。この上着の相手欄だけ「宙也」、作成日は彼が生まれた日だった。母の服はどこにも見当たらない。
台帳の採寸欄には、死者と生者の寿命が糸の長さで記録されていた。自然に抜けた糸は同じ長さのままだが、切った例だけ片側が短くなる。短い方の名には翌日の日付で黒い丸が付いていた。母の欄の糸は、宙也の欄まで一本で続いている。
上着の胸ポケットは赤糸で完全に縫われていた。中に相続書類があると思い、宙也は裁ち鋏を入れた。一度だけ糸を切ると、店内のミシンがすべて同時に一針動いた。壁に掛かった家族の採寸表では、宙也の胸囲が一センチ減り、亡母の欄が同じだけ増えた。切れ端は床へ落ちる前に血のように濡れた。
ポケットから出たのは、宙也名義の健康保険証だった。有効期限は来週、資格喪失理由は《死亡》。裏には母の字で「糸の短い方が先」とある。
切れた赤糸は床へ落ちず、宙也の胸元まで伸びていた。引いても皮膚の内側がつれる。反対側は上着の袖口から暗い試着室へ続いている。
その夜、スマートウォッチは宙也の心拍を検出しなくなった。代わりに、ハンガーへ掛けた黒い上着から毎分七十二回の脈を記録した。上着を箱へ入れると、睡眠アプリは《着用者が眠りました》と表示した。
翌朝、通販サイトから注文確認が届いた。商品は男性用の納棺着、サイズは宙也にぴったり。注文者は母、届け先は仕立て店だった。
キャンセルを押すと、理由欄に自動入力された。
《本人がすでに着用しているため》
試着室から母の声がした。
「宙也、裾上げするから入って」
同時にスマートウォッチが振動し、日常の運動通知と同じ書体で告げた。
《立ち上がる時間です。残り一日》