踊り場の白い靴
非常階段の踊り場で、彼は上履きを白いダンスシューズに履き替えていた。
見てはいけないものを見た顔をしたのは、彼ではなく僕のほうだった。
「誰にも言うな」
彼は学年でも目立つバスケ部員だった。背が高く、声が大きく、体育祭では応援団の中心にいる。その足が、細い紐のついた靴へ収まっている。
「何それ」
「見れば分かるだろ」
「分からないから聞いてる」
「バレエ」
非常階段の手すりをバー代わりにして、放課後こっそり練習しているらしい。幼いころから続けていたが、中学でからかわれて辞めた。高校では誰にも言わず、動画を見ながら一人で再開したという。
「バスケは?」
「好き。でも、これも好き」
彼はつま先を伸ばした。いつものコートで見る動きより静かで、力がどこに入っているのか分からないほど滑らかだった。
「笑わないの」
「びっくりしてる」
「同じだろ」
彼は靴を脱ごうとした。
僕は止める代わりに、スマートフォンを取り出した。
「動画、撮ろうか」
「は?」
「自分の動き、見たほうがいいんじゃないの」
彼は疑うように僕を見た。それから「顔は映すな」と言った。
僕は階段の上からカメラを向けた。彼は狭い踊り場で回った。風が窓から入り、制服のシャツを膨らませる。着地の音は驚くほど小さかった。
二回目、足が手すりに当たり、二人で笑った。
「ここ狭すぎ」
「屋上なら広い」
「鍵かかってる」
僕は用務員室から借りる理由を考えた。
翌週、僕らは「写真部の校舎撮影」という嘘で屋上の鍵を借りた。僕は写真部ですらなかった。彼はフェンスの影で靴を替え、夕日の中で跳んだ。
カメラの画面に映る彼は、バスケ部員でも、秘密を隠す生徒でもなかった。ただ、自分の好きな動きをしている人だった。
「消して」
撮影後、彼が言った。
「うまく撮れてるよ」
「だから怖い」
残せば誰かに見つかる。消せば、今日の自分までなかったことになる。
僕は動画を彼の端末へ送り、自分のものは削除した。
「秘密は一個だけでいい」
「何」
「僕が見たってこと」
彼は少し考え、白い靴を袋へしまった。
文化祭の有志発表で、仮面をつけたダンサーが体育館の舞台に立った。名前はプログラムになかった。
僕は客席の最後列で、着地の小さな音を聞いた。
拍手が起きても、誰も正体を知らない。彼だけが舞台袖から僕を見つけ、胸の前で小さく手を合わせた。
非常階段の秘密は、その日、学校中に見られた。それでも秘密のままだった。