車の鍵を返す
父から「車、いるか」と電話が来たとき、柚葉は雨宿りの最中だった。
実家で使わなくなる小さな銀色の車。車検はあと一年残っている。名義変更さえすれば譲る、と父は言った。
柚葉の財布には、二つの鍵に似たものがあった。父から預かった車の予備キーと、薄い緑色のバス定期。車があれば雨の日も濡れず、重い買い物もできる。バスを選べば、最終便を逃し、遠回りし、時刻表に生活を合わせることになる。
二十九歳にもなって車も持っていない、と同級生に言われたことがある。柚葉自身、車を受け取れば暮らしが一段完成するような気がした。
「駐車場代くらい払えるだろ」と父は言った。
払える。だから迷った。無理だから断るのではなく、便利さを持てるのに持たない選択は、ぜいたくにも意地にも見える。
柚葉は、車を持った自分を想像した。週末ごとに遠くへ行き、雨を気にせず出かける未来。一方で、使わない日にも費用を払い、手放す判断をまた先へ延ばす未来も見えた。
「いらない。売って」
父は「後悔するぞ」と言った。
「すると思う。雨の日は毎回」
電話を切ったあと、柚葉は二件のメッセージを送った。父には予備キーを返送する日時。交通会社には定期券の一年更新。
翌週、雨の中でバスが二十分遅れた。靴下まで濡れ、父の言葉が正しかったと思った。
それでも柚葉は、遅延表示の下で緑の定期を握った。便利な未来を選ばなかった不便を、誰かのせいにしない。濡れるたびに選び直すつもりで、到着したバスへ乗った。
その晩、最終バスを逃した柚葉は、駅からタクシーに乗った。料金は一年定期の一割近くになった。領収書を見て、車を断った自分を馬鹿だと思った。翌朝、家計簿の交通費欄へ金額を入力し、備考に「自分で選んだ不便」と書いた。格好よく暮らすためではない。次に同じ雨が降ったら、また後悔するだろう。それでも返送した鍵を追いかけず、その都度払う不便を選び直すことにした。その記録を消さず、翌月の定期代も先に取り分けた。