返せなかった料理本

休職初日の朝、果林は冷蔵庫の上から油染みのついた料理本を下ろした。凛々子の家の食堂で使っていた本で、高校三年の春に借りたままだった。

進路面談の帰り、二人は屋上で弁当を食べた。果林は東京の大学へ行き、食品会社に入りたいと話した。凛々子は、卒業後すぐ家の食堂で働くと言った。父親が腰を悪くし、人手が足りないらしい。

果林は励ますつもりで言った。

「でも、ずっと店じゃもったいなくない? 頭いいんだから大学行けるのに」

凛々子は卵焼きを箸で半分にし、静かに答えた。

「行けることと、行きたいことは同じじゃないよ」

その日の放課後、凛々子は料理本を貸した。家の看板メニューである白いオムライスの頁に、付箋が貼ってあった。

「東京でお腹すいたら作って。返すのは、作れるようになってから」

果林は大学へ進み、希望どおり食品会社に就職した。新商品の企画で忙しく、食事は試作品かコンビニで済ませた。料理本は何度も引っ越したが、白いオムライスだけは作らなかった。作れば、凛々子に「正しかった」と言われる気がしたからだ。

二十九歳の春、会議中に涙が止まらなくなり、休職した。翌朝、果林は初めて付箋の頁を開いた。卵白を泡立て、弱火で焼き、真ん中に黄色いソースを落とす。手間のかかる料理だった。形は崩れたが、温かいものを自分のためだけに作ったのは久しぶりだった。

その日の午後、料理本を持って食堂を訪ねた。凛々子は店を継ぎ、壁には調理師学校の夜間課程の修了証が飾られていた。

「作れた?」

「失敗した」

「じゃあ、まだ返却不可だね」

果林は笑い、それから休職したことを話した。凛々子は会社を辞めろとも、頑張れとも言わず、厨房の予備のエプロンを渡した。

「一回だけ、一緒に作る?」

二人で泡立てた卵白は、昔の弁当のように半分ずつになった。果林は料理本を返せなかったのではない。自分で選んだ道が曲がることを、認められなかったのだ。

店を出るとき、本はもう一度、果林の鞄に入っていた。今度の貸出期限は決めなかった。次に開く頁を、自分で選べると思えたからだ。