退会ボタンの翌日

婚活アプリの顧客情報提供会議で、淡海智紀は退会データを消去する外注チームの担当者として、一万九件の「休眠会員」リストを確認していた。買い手は身元調査会社。結婚相談所向けに過去の交際履歴を照会するという。

運営会社は、長期間ログインしていない会員だけを対象にし、退会者は除いたと説明した。契約料は一億二千万円だった。

智紀は一万九件のうち、千九件に削除済みフラグが付いていることに気づいた。

退会処理は前日午前一時五十八分に完了。消去証明も自動発行されている。ところが売却ファイルの抽出時刻は午前二時三分。退会ボタンを押した人まで、五分後に「休眠会員」として戻されていた。

運営責任者は、バックアップから抽出したため技術的に避けられなかったと答えた。

智紀は処理設定を示した。通常は削除済みを除外する。午前二時一分、運営責任者が条件式から「deleted=false」を消していた。変更理由欄は「件数一万を維持」。一万件を割ると、買い手との単価が半分になる契約だった。

ファイルには氏名、顔写真、勤務先、年収、交際した相手の会員番号、違反通報の内容まで残っていた。買い手の提案書には「結婚前調査の裏付け資料として一件三万円で販売」とある。

責任者は、悪質利用者を見分ける社会的意義があると主張した。

智紀は退会画面の文言を読み上げた。「全ての登録情報を削除します」。その約束に会社の電子署名が付いている。

外注契約を失うと警告されても、智紀は消去確認印を押さなかった。

「翌日に売る情報を、全て削除したとは呼べません」

買い手の担当者は、退会者千九人の顔写真を既に検索可能な状態へ取り込んでいた。智紀が一件を削除するよう求めると、「契約成立後でなければ操作できない」と拒まれた。受領も利用も始まっているのに、責任だけ契約後へ送ろうとしていた。

社長が一億二千万円の承認書から手を離した。退会ボタンを押した千九人は、午前二時三分に会員へ戻されることを拒んだ。