逆さ雁の笠印

守谷甚兵衛は、笠印を逆さに縫いつけた。

三羽の雁が空へ昇る紋。それを上下逆にすれば、落ちていく雁になる。主家の敗北を笑うような形だった。

「殿に見つかれば腹を切らされます」

荷駄頭の萱野丑松が言った。

「城へ着けばな」

敗れた姫木勢は、山裾の二本道で退却している。歩ける侍七十と、村人二百。追う戸賀崎勢は首級を欲しがり、紋のある笠を狙う。

甚兵衛は逆さ雁の笠印を、空の荷車を引く二十人へ配った。北道を行かせ、敗残の侍が旗を隠して逃げているように見せる。実際の侍は刀を筵へ包み、南道で村人の荷を担ぐ。

「囮は百姓です」

丑松の声が硬い。

「俺も行く」

「それで許される話では」

「許しを乞う相手が、生き残ればいい」

北道は狭く、両側に栗林と深い沢がある。敵が追えば二十人を捕らえるのに手間がかかる。村人は地形を知り、侍は知らない。囮に選んだのではなく、逃げ切れる者へ最も危険な役を頼んだ。笠印が正しく縫われていれば、あまりに露骨だ。逆さだからこそ、慌てて隠したつもりで間違えたと敵は読む。

甚兵衛は村人たちへ言った。

「追いつかれたら荷を捨て、谷へ散れ。侍のふりを続けるな」

老婆が笑った。

「侍は、逃げるときまで作法が多いねえ」

「百姓ほど長く生きておらんので」

一行は北へ出た。笠の逆さ雁が夕日に黒く浮く。ほどなく敵の物見が一騎現れ、笠印を見て引き返した。

丑松が小声で訊く。

「本隊が南へ入った合図は」

「城の鐘が一つ」

「鳴らなければ」

「俺たちは本当に敗残兵になる」

追手の蹄が増えた。甚兵衛は荷車の覆いを剥いだ。中には鎧ではなく、石と藁人形。遠目には負傷した武者に見える。

敵が矢を放った。隣の男が倒れる。老婆がその男の笠を拾い、二つ重ねてかぶった。紋を一つでも多く見せるためだった。甚兵衛は振り返らず、笠を深くした。走れば侍に見えない。敗れても格好を捨てられぬ者の歩き方で、ゆっくり坂を上る。

山向こうから鐘が一つ響いた。

甚兵衛は笠印をむしり、谷へ投げた。

南の城壁で、村人と侍を迎える脇門が開いた。