遺産分割、夕焼け一件
神代俊の父が残した財産は、二百四十六件の記憶だった。
有名建築家だった父は、受賞の瞬間、海外視察、著名人との会食をこまめに保存していた。死後、それらは相続資産として査定され、兄と姉は高値のつく記憶から選んだ。
俊だけは、父と折り合いが悪かった。少年時代の運動会にも来ず、進路を相談すれば「自分で決めろ」と言った人だ。相続放棄するつもりだったが、一覧の末尾に「駅前・夕焼け・価値ゼロ」という一件を見つけた。
再生すると、父は駅のベンチに座っていた。十二歳の俊を待っている。俊は家出して、終電まで戻らなかった夜だ。
父は怒っていなかった。自販機で温かいココアを二本買い、一本が冷めるとまた買い直した。通り過ぎる子どもの足音に何度も顔を上げ、妻からの電話には「仕事の打ち合わせだ」と嘘をついた。
最後に俊が改札から現れる。父は駆け寄りかけて止まり、いつもの無表情で「帰るぞ」とだけ言った。
俊には、その夜の自分側の記憶があった。父が迎えに来るのが遅く、謝りもしなかったので、やはり愛されていないと思った。
相続AIは説明した。父はこの記憶を晩年に一度だけ売却査定へ出したが、「社会的価値なし」と返されたという。その後も削除せず、非公開のまま持っていた。
兄は受賞記憶を博物館へ売り、姉は著名人の会食を配信会社へ貸した。俊は価値ゼロの夕焼けを相続した。
再生するたび、父の愛情を確認できると思った。だが三度目でやめた。繰り返せば、父を理解した気になってしまう。あの人がなぜ何も言えなかったのかは、記憶の中にも答えがなかった。
俊は駅前の設計事務所を辞め、小さな住宅会社へ移った。息子の帰宅が遅い日は、仕事を切り上げて迎えに行った。
ある夕方、息子が「一人で帰れたのに」と不機嫌に言った。
俊は「心配だったから」と答えた。たったそれだけで、父とは違う人生になった気がした。
相続したのは夕焼けではない。言えなかった一言を、次の世代へ持ち越さない権利だった。