配管を渡るぬるい水
壁の中を、ぬるい水がゆっくり下っていた。
荒巻は机に広げた面接資料から顔を上げた。古いマンションでは、上の階で風呂を使うと配管が鳴る。最初に細い震えが来て、次にざあ、と水が走り、最後に金属が一度だけ縮む。
ざあ。かん。
机のライトは紙の中央だけを照らしていた。エアコンの室内機は乾いた音で回り、窓には小雨が斜めに残る。荒巻は志望動機を七回読み、七回とも別のところでつかえた。
転職理由を前向きに言い換えるほど、今の職場で疲れたことが嘘になる気がした。かといって疲れを全部話せば、愚痴に聞こえるだろう。眠る前に正解を作ろうとするたび、文章は長くなった。
上の階で椅子が動き、また水が流れた。
今度は短い。誰かが洗面器をすすいだのかもしれない。配管の震えが机の脚へ伝わり、コップの水面を丸く揺らした。
ざあ。かん。
天井の向こうの人は、荒巻の面接を知らない。荒巻も、その人がどんな一日を洗い流しているのか知らない。それでも、使い終えた水が同じ壁の中を通り、夜の階下へ音だけ残した。
荒巻は志望動機を声に出す代わりに、最初の一文だけ小さく読んだ。配管の音と重なると、立派に聞かせようとしていた言葉が、ただの自分の声へ戻った。疲れたことも、次へ行きたいことも、どちらかを消して整える必要はないのかもしれない。面接で全部言えなくても、嘘だけ避ければよかった。
やがて上の照明が消えたらしく、天井際の隙間から漏れていた薄い光もなくなった。配管は一度鳴り、静かになった。
荒巻は資料の最後へ、「続きは朝」と書いた付箋を貼った。志望動機を完成させた印ではない。今夜はここまでにするための印だった。
台所で新しい水をくみ、半分飲む。蛇口を閉めると、自分の部屋の配管も短く鳴った。下の階に誰かがいれば、この音が届くかもしれない。
クローゼットには、明日着るジャケットが掛かっている。空調の風が届くたび、袖だけがわずかに動いた。面接へ行く自分は、今の自分より立派になるわけではない。同じ袖へ腕を通し、同じ疲れを持ったまま、決められた時間に椅子へ座るだけだ。
机のライトを消す。雨とエアコンだけになった部屋で、荒巻は布団へ入った。答えをまだきれいに流し終えなくても、ぬるい言葉を抱えたまま一人で朝まで休んでよさそうだった。