鉄板から離れる一尾
真柴梢が魚焼き台に立つと、市場の男たちは賭けを始めた。
彼女は魚商の娘だったが、焼き場は男の仕事だと十年間包丁すら持たせてもらえなかった。ところが納品権を賭けた当日、雇った焼き手が競合組合へ逃げた。残ったのは梢と、皮を一枚でも破れば返品される十二尾だけだった。
赤腹鯛は皮が薄く、鉄板へ必ず貼りつく。領主の昼餐用十二尾を破れば、魚商組合は厨房への納品権を失う。
「女の細腕で、剥がせるものか」
焼き役のザックは冷たい鉄板へ油を引き、試しの一尾を置いた。案の定、返した瞬間に皮が半分残った。
梢は新しい鉄板へ魚を置かなかった。周囲が急かしても、まだ置かない。水滴が広がって消えるうちは温度が足りない。玉になって走り、端で弾けた瞬間だけを待った。
魚の水気も布で完全に拭う。油を増やして浮かせるのではなく、鉄板と魚の最初の接触を整える。その一手だけに、十二尾の価値がかかっていた。何も載せずに火へかけ、水滴を一粒落とす。水が丸い玉になって走るまで待つ。それから薄く油を引き、水気を拭いた魚を置いた。
使った知識は一つ。十分に予熱した鉄板なら、表面のたんぱく質がすぐ固まり、焼き目ができて貼りつきにくい。
「焦がす気だ!」
ザックが叫ぶが、梢は触らない。皮の縁が白から金へ変わり、香ばしい匂いが立ったところで、へらを差し込む。
一尾は音もなく鉄板から離れた。
皮には破れ一つなく、鱗の模様まで残っている。試食役の執事が箸を入れると、皮はぱりりと鳴り、身から透明な汁が出た。貼りつきを恐れて何度も動かしたザックの魚は身まで崩れていたが、梢の魚は中心がふっくらしている。鉄板に残ったのは焦げた皮ではなく、薄い脂の跡だけだった。
市場の賭け札は、誰も梢の成功へ置いていなかった。執事はその札の山を見てから、彼女の皿をもう一口食べた。
梢は二尾目、三尾目を並べる。油は最初の一匙だけ。十二尾すべてが同じ焼き色で皿へ移った。
ザックの鉄板には、一尾分の皮が黒くこびりついたままだ。
領主は完成した十二皿を見回し、魚商組合長へ尋ねた。
「この焼き手は、毎回つけられるか」
組合長が答える前に、梢は火を落とした。
領主は納品契約書の条件欄へ一行を書き足す。
『赤腹鯛、月三百尾。ただし焼成責任者は真柴梢とする』