鏡の向こうへ言わない

閉館五分前、荒城悠悟は時間博物館の〈後悔鏡〉の前に立った。

鏡の向こうは八年前の駅。黄色い傘を持った親友が、海外行きの切符を握っている。あの日、悠悟は何も言えなかった。親友は最後まで黄色い傘を半分空け、悠悟が隣へ入るのを待っていた。けれど彼は世間話だけを続け、発車ベルに背中を押させた。黄色い傘の水滴が、今も鏡の内側だけで落ち続けている。

「君が好きだ」

鏡の中の親友は振り返りかけ、電車の警笛に消えた。展示室の時計が十八時になると、悠悟はまた閉館五分前へ戻る。足元には、八年前の穴あき切符。

鏡の説明板には〈相手の返答を得れば反復終了〉とある。目的は一つ。あの日の答えを聞くことだった。

二周目、悠悟は出会った頃から話した。

「君が好きだ」

「今の僕を、君は知らない」

声が返った。だが返答として認識されず、時間は戻った。

三周目、未来を説明した。親友が現地で結婚し、子どもが生まれたことまで。

「君が好きだ」

「それなら、どうして僕の今を消して告白する?」

警笛。巻き戻り。

六周目、悠悟は「好きだった」と過去形にした。七周目には「答えなくていい」と付け足した。それでも鏡は、彼が心の底で答えを待っている限り閉じなかった。

九周目、黄色い傘の向こうで親友が言う。

「君が欲しいのは、僕じゃない。言えなかった自分の無罪だ」

悠悟は穴あき切符を握った。展示の利用料は一周ごとに、現実の思い出を一つ奪う。すでに親友の笑い声も、初めて会った教室も思い出せない。残っているのは、この動く姿だけだった。

十周目。悠悟は口を開きかけ、やめた。

「君が好きだ」とは言わない。

代わりに穴あき切符で鏡の端を強く叩いた。亀裂が走り、黄色い傘が細い光へ砕ける。返答を得る可能性も、最後の映像も失われた。

十八時。館内放送が流れ、時計は十八時一分へ進んだ。

警備員が駆け寄る。弁償額を告げられても、悠悟は割れた鏡を見なかった。もう思い出せない誰かに、答えを強要しなかった代金だと思った。