鏡越しの相方

美容師の菜月には、三年間、一度も会ったことのない同人誌の相方がいた。

小説を書く「八千代」と、挿絵を描く菜月の「雨粒」。連絡はチャットだけ。本名も職業も聞かず、年に二冊、二人の名で本を出してきた。会場でも売り子の時間をずらし、互いの顔を知らないままなのを、少し格好いい関係だと思っていた。

土曜の午後、菜月が担当した新規客は、肩までの髪を指して言った。

「この登場人物みたいにしたくて」

見せられた画像は、雨粒が描いたキャラクターだった。

「ご存じなんですか」

「友達が描いてるんです」

菜月の鋏が止まりかける。客はさらに続けた。

「この子、雨の日だけ嘘をつけない設定で」

それはまだ本にしていない次回作の設定だった。知っているのは菜月と八千代だけ。

鏡の中で目が合う。

「八千代さん?」

菜月が囁くと、客の肩が跳ねた。

「雨粒さん?」

二人とも、まず周囲を見回した。隣の席ではドライヤーが鳴り、受付では予約電話が続いている。

八千代は会社では無口なシステム担当だという。菜月も、イベントの前日に休みを取るたび「旅行」と答えていた。互いに華やかな創作者を想像していたのに、鏡に映るのはエプロン姿の美容師と、切った髪をケープに散らした会社員だった。どちらも、毎日の仕事を終えてから原稿を開く顔だった。

「思ってたより普通」

八千代が言い、すぐ口を押さえる。

菜月は吹き出した。

「そっちも」

緊張がほどけ、予定していた髪型を確認する。キャラクターそのままではなく、職場でも結べる長さを残すことにした。

カットの間、創作の話はしなかった。職場に知られたくないこと、今日は客と美容師でいたいことを、互いに分かっていたからだ。

仕上げに鏡を見せると、八千代は髪を揺らした。

「雨の日も邪魔にならなそう」

会計後、次回予約の名前を尋ねる。

八千代は本名を答え、少し迷ってから付け足した。

「夜、原稿の相談していい?」

「二十二時からなら、雨粒に戻ってます」

菜月は予約票には本名を書き、スマートフォンのチャットには八千代と打った。

鏡の両側で、二つの呼び名が初めて同じ顔を持った。