閉館前の余白
ギャラリー閉館まで、あと十分だった。
悠真は壁から一枚の絵を外そうとしていた。白いワンピースの女性が、海を背にこちらを見ている。題名は〈帰らない人〉。モデルは絵麻だった。絵の中の彼女は、二人で暮らした部屋の合鍵を首から下げている。実物は別れた日に返されたが、悠真は鎖の光まで描き込んでいた。
「もう売れたんでしょ」
「売ってない」
「赤い印がある」
「予約の印だ」
絵麻は梱包材を抱え、冷たい声で言った。半年前、この絵に購入済みの印がついたのを見て、彼女は悠真の部屋から出ていった。自分との時間まで商品にされたと思ったのだ。
悠真は受付の古いノートパソコンを開き、売買記録を見せようとした。メールソフトが復元され、未送信の下書きが現れる。
〈この絵は売らない。君が戻る場所として残す。展示が終わったら、もう一度一緒に暮らしてほしい〉
宛先は絵麻。作成日は、赤い印をつけた夜だった。
「予約って、何の」
「俺が買い取る予約。ギャラリーとの契約上、印が必要だった」
「言ってない」
「驚かせたかった」
その言葉に、絵麻は目を伏せた。悠真の驚かせ方はいつも、説明を省くことだった。初めての旅行も、同棲の部屋も、彼は善意で先に決めた。
絵麻は笑わなかった。
閉館の音楽が流れ始める。残り七分。
「私は、あなたが何でも作品にするのが嫌だった」
「君だけは違う」
「違うなら、どうして絵にしたの」
「帰ってくる顔を忘れたくなかった」
悠真は下書きの送信ボタンを押した。だが回線が切れていて、画面には再び〈未送信〉と出た。閉館後にネット工事が入るため、すでにルーターは止められていた。
絵麻は端末を見て、静かに首を振った。
「また、届かないね」
「口で言う。戻ってほしい」
「今は、戻れない」
彼女の足元には海外行きの画材ケースがあった。来月から、修復師としてフィレンツェへ行くという。
「絵は持っていって」と悠真が言った。
「私の帰る場所なんでしょ」
「だから」
「なら、ここに置いて」
係員が照明を一つずつ消していく。残り一分。
悠真は下書きを保存せず閉じた。絵麻は白い壁を一度振り返り、出口へ向かった。
悠真は〈帰らない人〉の赤い印を剥がし、絵をもう一度壁に掛けた。