閉館後の展示室
ギャラリーの閉館まで、あと二十分だった。
史穂は展示室の照明を落としながら、臣が外した作品札を箱へ入れていた。彼は来月、別の美術館へ移る。
「理事長の娘だったんですね」
机の上には、取締役会の封筒がある。宛名は、史穂が職場で使っている母方の姓ではなく、理事長と同じ姓だった。
「黙っててごめん」
「ただの同僚だと思ってた」
「ただの同僚です」
史穂は家族の名前で扱われるのが嫌で、採用時から旧姓を使った。臣は縁故採用を嫌い、誰に対しても同じ基準で作品を選ぶ人だった。
好きだと言えない理由は一つ。正体を隠したまま近づけば、彼が最も嫌う不公平を利用することになる。告げる前に、嫌われるかもしれない事実を渡さなければならなかった。
臣は一度、理事長が推した作家の展示案を「名前だけで壁は貸せない」と突き返した。その夜、史穂は彼を好きだと自覚した。同時に、自分の名前を言えなくなった。昼休みに古い喫茶店へ行き、家族の話題になると母のことだけを話した。臣が「あなたは誰の顔色も見ないね」と笑うたび、胸が痛んだ。展示室の白い壁には作品を外した四角い日焼け跡が残り、隠していたものの輪郭みたいに見えた。
「次の館への推薦、理事長からだった」
「私は頼んでない」
「信じろと?」
「信じなくていい。確認して」
閉館放送が流れる。あと十五分。
「昼休みに誘ったのも、展示案を褒めたのも、理事長の娘として?」
「ただの同僚として」
二度目は、史穂自身が苦しくなった。
「それなら、どうして名前を隠した」
「あなたに選ばれたかったから」
臣が黙る。
「仕事でも、ほかのことでも。家の名前を見て決められたくなかった」
史穂は首からスタッフ証を外した。旧姓だけが印刷されたカードを返却箱へ入れ、本名と個人番号が入った自分の名刺を差し出す。
「ただの同僚では、もういられない」
三度目だけは、願いだった。
照明が最後の一列まで消える。暗い展示室で、臣は名刺を受け取り、胸ポケットへ入れた。