雨のない傘立て
午後六時、監査法人の応接室から大きな衝突音がした。扉を開けると、代表の綾部川航平が鋳鉄製の傘立ての下で死んでいた。傘立ては高さ一メートルを超え、窓辺に立っていた綾部川の頭を横から打っている。ただ白い照明だけが静かに点き、室内に人影はなかった。
容疑者は設備主任の春日井紗英、副代表の須磨崎研、綾部川の娘である葉室詩。三人は五時四十五分から隣棟のガラス会議室で取締役会に出席し、録画にも連続して映っていた。応接室へ渡る廊下は受付の正面で、会議中は来客もなく、六時に抜けた者はいない。
綾部川はその日、春日井の工事費不正を告発し、須磨崎の昇格を撤回し、葉室への株式譲渡を取り消した。三人とも夕方まで応接室へ入っている。綾部川が毎日六時、窓辺で本社へ定時連絡をすることも社内では知られていた。
残った手掛かりは三つだけだった。第一に、業務用の自走清掃機が傘立ての脇で停止し、回転ブラシに細い黒糸が何重にも巻きついていた。第二に、傘立ての重い台座には、床と平行に走る新しい擦り傷があった。第三に、掃除機の走行地図は午後五時十二分に書き換えられ、変更に使われた端末は春日井の管理用タブレットだった。
黒糸の片端は切れていたが、傘立て上部の飾り環にも同じ繊維が残る。掃除機は六時に自動起動し、変更された経路どおり窓辺を通った。人が押さなくても、上部の飾り環を糸で引けば重心の高い傘立ては横へ倒れる。
「六時に応接室へ入った犯人はいません」私は停止した掃除機を指した。「春日井さんは傘立ての飾り環と清掃機を黒糸で結び、五時十二分に経路を窓辺へ変えた。六時、自動で走った清掃機が糸を巻き取り、台座を引いて傘立てを倒したのです。ブラシの糸、横向きの擦り傷、あなたの端末記録は同じ仕掛けの三段階です。全員の会議中のアリバイは成立する。しかし部屋を動いたのは人ではなく、あなたが時刻を与えた機械でした。雨のない日に傘立てを凶器へ変えたのは、その黒い一本の糸です」